希望の舎―再生編ー

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介護職、聖なる職ではなく賤なる職でもない件〈再掲〉

現在でもそうだが、近い将来に介護職員の不足が懸念されている。

求人サイトでは介護職の募集であふれている。

なにゆえにこれほど不人気職種なのか。

待遇の悪さ以外に根源的な理由があるのかもしれない。

 

初出 2016/8/30

 

僕は以前このブログで介護や福祉の仕事は特別なものではなく普通の仕事に過ぎないと書いた。介護職を特別視すると様々な弊害が生じるとも書いた。

今回のエントリーではなぜケアワークが神聖視されたり、逆に卑賎視されたりするのかを考察してみたい。

 

奈良時代から平安時代にかけての頃の話から。

当時、障害や病気等でケアを要する人たちに対しての施策は殆どなかった。社会保障制度が無きに等しい時代であった。悲田院など一部でケアを要する人たちを収容する施設はあった。これは社会保障社会福祉ではなく「お上」からの、ありていに言えば天皇家からの恩恵・施しによってなされたものだった。皇室財産からの寄付によって賄われたのである。皇室からの慈善目的の寄付は戦前まで盛んにおこなわれている。この天皇家からの寄付によって運営された病院や福祉施設は沢山ある。

 

奈良時代光明皇后によるハンセン病患者への施しの伝説にあるように、障がい者や病者をケアする行為は「聖なる」ものとしてとらえられた側面がある。しかし、実際のケアの担い手は「非人」たちであり、非人たちは賤視された人たちであり、被差別民だったのである。同時に障がい者・病者・高齢者等へのケアは「穢れた」仕事でもあったのである。

なぜ「穢れた」仕事・行為だったのか。それは人の生死に直接かかわる行為であったからだとされている。人の「血」や生死に触れる行為は穢れたものだという社会意識が共有され、この穢れた行為・仕事に従事したのは賤視された人たちであり、あるいは穢れた行為に関わったからこそ賤視されたのである。

 

現在介護に直接かかわるケアワーカーに対しては神聖な仕事である、と同時に汚れ仕事であるという見方がある。

後者に関しては排泄介助をしたり(いわゆるシモの世話)するから汚れ仕事だというのは表層的なものに過ぎない。深層においては障がい者や高齢者の生き死にに関わる仕事であるから「穢れ」仕事とみられてしまうのである。生死に直接関わる食事や排泄等のケアを行う仕事であるからこそ、古代から綿々と続く「穢れ」意識にとらわれるのである。

 

同じように人の生死に直接関わり「血」に直接触れる仕事に医者や看護師がある。やはりこれらの職も近世以前は賤視されていた。医者が社会的威信の高い仕事になったのは明治以降であり、看護師の待遇が劇的に改善されたのは最近になってからのことである。迷信的な穢れ意識を超克して「立派」な仕事として医師や看護師が見られるようになったのは、まずは報酬の高騰があり、それに伴う社会的地位の向上があったからである。

 

介護職については未だに神聖視された面と汚れ仕事の面がないまぜになっている。それがゆえに劣悪な待遇が放置され続けている。極論としてはボランティアで賄えとか外国人労働者を受け入れろといった声が絶えない。

北欧諸国ではケアワーカーは専門職として取り扱われ、待遇も良い。おそらく神聖視はされず汚れ仕事として賤視もされず、ひとつの普通の仕事として社会に認識されているからだと思う。

将来は介護職も医者や看護師のように「穢れ」意識から脱して、人と直接関わる職種のひとつに過ぎない、と見られるようになると現状を打破できる。

介護職は「聖なる職」ではないし、「賤なる職」でもない、との共通意識が社会に浸透すればようやく普通の「対人専門職」の一員となれる。

  

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