ここ数年、この国がいかに美しいか、いかに優れているかを強調しているテレビ番組や著書が目に付く。
自国の美点を誇ることを取り立てて論うつもりはない。
僕は愛国者であるから、自国が美しく誇れるものならばそれに越したことはない。
ただ、少々気がかりなことがある。
偏狭なナショナリズムに陥らないかという杞憂とは別に「美しさ」を殊更に強調することに釈然としない思いが募るのである。
確かに自然の風景や街並み美しい方が良い。
人々の心のありようも美しい方が良い。
ただ、「美しさ」というものは主観によるものである。また美しさを至上の価値としてしまうと、そうではないとみなされたものは排除される。
この「美しさ」は誰にとって美しいものなのか、美しいとされないものや人たちは価値がないのか、ということまで考えないと、単なる排除・差別の論理になってしまうおそれがある。
美しさや清潔さを至上の価値とするイデオロギーはとても危険なものである。例えばナチス・ドイツは殊更に美意識が高く清潔さを追求していた。それがゆえに「異物」視した(美しくないとみなした)ユダヤ人、心身障碍者、ロマ人たちを迫害し、この世から抹殺しようとした。
美しさや清潔さを殊更に強調する思考はファシズムにつながるものである。
「美しい日本」、「美しい社会」といった類のスローガンに僕は強い違和感を覚え、胡散臭さを感じる。
この場合の「美しい」ものは為政者にとってのそれである。支配者層のあるいは社会的強者の価値観の押し付けに過ぎないものである。
「まつろわぬ」人々、化外の民は美しくなく、排除し抹殺すべしという価値観である。
もしくは多数派が少数派を排斥するためのイデオロギーもどきである。
生活保護を受けている人たちは美しくない。
ひきこもりやニートの人たちは美しくない。
ホームレスの人たちは美しくない。
お年寄りは美しくない。その他諸々・・・
「美しさ至上主義」はこの社会のマイノリティを排除し卑賎視するイデオロギーに即座に転化する危険性を秘めている。
美しさを求めることは完璧さを志向することでもある。
この世に完璧なものなどなく、完璧な人間など存在しない。
しかしながら、われこそは完全な正義を体現していると称して殺戮を繰り返した「完璧」で「美しい」と思い込んだ者たちの所業は枚挙にいとまがない。
いともたやすく「美しい〇〇」とスローガンを掲げて人々を扇動するような人間を僕は全く信用していない。底の浅いバカだと見ている。
けれども、僕たちは「美しい〇〇」といった類の言説に何となく惹かれてしまうといった性向を持っている。
「美しさ」に覆われた社会、「美しさ」を殊更に重視する社会は生きづらい、と僕は思っている。
「美しい」ものには棘があり毒がある、という先人の教えをないがしろにしてはならない。