電通社員の痛ましい過労自殺があって長時間労働をなくせ、というコンセンサスが生まれてきているのは良いことだと思う。
しかしながら、その方法として国家による規制ばかりに目が向けられていることに僕は危機感を持っている。
確かに国家権力による強制力を伴った施策も必要である。全面的に「民間」任せにできないという事実もある。
資本主義体制下では会社の利益の極大化が第一義なので、それを突き詰めていくとどうしても労働者の労働強化や処遇の劣悪化に行き着くことになってしまう。資本主義の暴走を抑えるためには時として国家権力の介入が必要であることも理解しているつもりだ。
でも僕は原則論にこだわりたい。
労働者の処遇は労使の交渉で決定すべきだという原則論に。
会社や労働者の自助努力で長時間労働を根絶するという原則論に。
労働関係の法令は①労働者保護立法、つまり国家による労働者の権利保護と会社への規制という側面があり同時に②労使関係の健全な育成、つまり団結権や争議権を保障し労働組合の活動を保障するという側面がある。
②は弱い立場に置かれた労働者が団結して自らの力で権利を勝ち取ることによってその権利を強固なものとし、会社の横暴を抑止することに力点が置かれている。理想論だけれども、恩恵的に得られた権利よりも自らが立ち上がって得られる権利が本当の「権利」なのである。
現実は現実として受け止めつつも、労働組合の意義を再確認し、再構築すべき時期に来ている、と僕は思う。
労働組合の闘いによる長時間労働の是正のみに頼るのはやはり無理がある。正社員の既得権の確保ばかりに汲々としている既存の労組に大きな期待をかけることはできない。コミュニティ・ユニオン等の草の根的な活動に期待するしかない。はじめは小さな力しかなくても、それを積み重ねることで大きな力に変貌することがある。
個々の会社の取り組みも大切である。
長時間労働が蔓延すると労働者が疲弊し効率・生産性が低下する。ひいては会社存続が危ぶまれる事態に陥る。それぞれの会社はこのことに早く気付くべきである。
労働者を酷使することによって存続・発展するような会社に未来はない。
月並みな表現になってしまうけれども、「人間らしく」働けるような環境を整える会社が結局は生き残るのである。
ブラック企業的な会社の存続を許さない、というコンセンサスを人々が共有する社会になり、ひどい会社にプレッシャーを与えるようになれればよい。
一方、労働者の側も泣き寝入りしないで個人として不条理に対峙する気概を持たなければならない。同時に個人の頑張りには限界があるので、「仲間」を作って対抗するという手も考えても良い。自分たちで労組を作ったり、コミュニティ・ユニオンに皆で加入したりして会社と闘う姿勢を見せることである。
国家権力の介入は最終的手段である。
労使双方の努力によっても長時間労働の蔓延が解消できないことも多々あるだろう。
しかし、法規制や法律の改正のプレッシャーを政府に与えた結果の国家権力の介入と国家に端から頼ったそれとは雲泥の差がある。
基本となるのはやはり個々の会社、個々の労働者の長時間労働是正への思いや具体的な取り組みなのである。
長時間労働の是正に限らず、労働問題の解決にはまずは労使が当事者主体で取り組むべきであり、それが健全な形である。