希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

サラリーマンの給料が働きより少ないのは当たり前だという件

世の多くのサラリーマン(労働者と呼ぶ方が正しいが)は自分の働きに比べ給料が少ないと感じている。

元々賃金の額は不満足要因であって、多少の昇給があってもほとんどの人は満足しないものである。それと人は自分に対する評価が甘くなりがちで、自分が思っているように会社や同僚は評価していないことが多い。自分はこれだけ身を粉にして働いていて会社に貢献している、と思っていても周囲はそうとは考えていないのだ。

 

しかし、自己評価と他者による評価のズレだけで給料に対する不満足感は説明できない。

サラリーマンの給料が働き具合に完全に比例しないのは資本主義社会では当然のことであってそのシステムがそのように設計されているからである。

一言で言えば労働者は搾取されているのである。そして会社は搾取ありきで存在し発展するのである。この搾取に対して道徳的な批判をするのはナンセンスである。搾取自体は悪ではない(善でもないけれども)。資本主義体制であり続ける限り、搾取は絶対になくならない。労働者は資本主義体制を是とする限り、搾取され続けなければならない。

 

会社は労働者の働きによって得られた利潤を株主に分配し、役員報酬を取り、内部留保に回し幾ばくかの配分を労働者にする。会社は労働者から搾取した資本を再投資しなければその維持すらできない。会社が労働者に支払う賃金の額は労働者が生計を維持する分と労働者の再生産に要する分に相当するものを支払えば足りると考えている。労働者の生産性が上がっても会社の取り分が増えるだけで、生産性の向上に比例して賃金が上がるわけではない。

一方、人は自分の最低限の食い扶持の相当する以上のものを生み出すという本能的なものがある。余った分は贈与して、社会や経済が成り立ってきたという側面がある。

要するに労働者は常に給料以上の商品やサービスを生み出すという本能があり、資本主義下では従前の社会では元々贈与に供する分を搾取されているのである。

 

では、搾取され放題のサラリーマンがなぜ働き続けられるのか。

自分の生活を成り立たせるためというのは当然のことである。それに加えて自分の働きで会社を成り立たせているという意識を持つことによって安い給料でも働き続けられるのである。自分が属する共同体の一員である、という強い意識を持つことができるからともいえる。

逆に言えば、自分が共同体(会社等)の一員として共同体の存続にかかわる根幹的な仕事をしていない、と感じてしまえば労働は苦役になる。

労働は喜びにもなり同時に苦痛になる、という二面性を有するのはこのためである。

労働が喜びと感じられているときには給料が働きに比して少ないと感じても働き続けることができるのである。また、労働が苦役と感じられれば、少々の多額な給料を得ていても満足はしないものである。

 

自分の働きによって生み出されたすべてを自分ひとりのものにしたいと思えばフリーランスか自営による働き方を選択するしかない。この場合、完全に独立するしないと意味はない。下請け、孫請け的な仕事を「自営」しても、それは形の変えた(会社ー労働者間という形以外の)搾取が生まれることになる。

資本主義体制下ではフリーランスという働き方は「鬼っ子」的なものである。フリーランスという働き方は一見「自由」であるが、それに伴う不安定さは資本主義システムの中で依って立つ基盤が脆弱なことによるものである。言い換えれば「階級性」が薄いのである。

 

世のサラリーマンは資本主義体制下で生き続ける限り、自分の働きよりも少ない給料で働き続けざるを得ないのである。

ある種の労働者としての「宿命」なのである。

グローバリズム新自由主義が行き過ぎると労働者の処遇の劣化が加速する可能性がある。そもそもが資本主義システム自体に内在する危険性である。

労働者として譲れないことは自身の働きにリンクしない給料が「生存を脅かされない」レベルよりずっと上に維持されることであり、間違っても貧困に陥らないことである。まともに働いていれば生活に困らない程度の処遇を得続けることである。

ただ、漫然と働き、自分の給料を嘆いているだけではいつの日かなし崩し的に労働者としての矜持、権利、守るべき生活の質を奪われるかもしれない。