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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「働き方」は個人の自由なのに国家が介入するなんて無意味だという件

働くということ 社会について考えてみる

現政権が「働き方改革」なるものを掲げている。

僕はこのことに強い違和感を持っている。

どのように働くかなんて全くの個人の自由である。あるいは個々の会社が独自に決めるべき性質のものである。

僕は労働至上主義イデオロギーに強い拒否感を抱いてはいるけれども、働き方が生き方に少なからぬ影響を与えるということについては肯定的である。

 

正社員と言う雇用形態による勤務が唯一真っ当な働き方であり、非正規雇用、短時間労働、掛け持ち、フリーランス等の働き方は異端である、というような考え方は時流にマッチしていないしあまりにも硬直的である。

正社員を標準モデルとして組み立てた社会保障制度はもう限界にきている。ライフモデルが多様化しているのに働き方の選択肢が少ないと生きづらさを抱える人たちを大量に生み出すおそれがある。

それぞれが好きなような働き方をして好きなように生きる、そんなライフスタイルが許容される社会が望ましい、と僕は強く思っている。

 

かつては人々を均質化し標準化した方が経済成長を果たすことができ、同時に権力者層が統制しやすくなると考えられていた。事実そのとおりとなった。しかし、工業化社会から脱し、経済成長が一段落すると社会の活力が失われることになった。

人をある特定の枠にはめること自体に無理があるのである。

働き方や生き方についても同様であって、国家やあるいは社会・世間が推奨する特定のモデルを設定し、それを人に当てはめようとすると様々な問題が生ずるのである。ひきこもりやニートについても、それらは個々の資質の問題だけではなく、社会システムの歪みによってもたらされたものである。

 

国家が個々人の「働き方改革」について旗振りをするのは一見良いことのように思われる。

しかし、天邪鬼の僕からすれば「一見良いこと」に国家が介入するのは裏があるのではと勘繰りたくなるし、またそもそも論として個人の自由に関わる事柄に国家が介入すればロクなことにはならない、と思えてならない。

国家が「働き方」を改革せよ、というのはまた同時に国家がその改革の枠組みを決めて、結果として人々を一定の鋳型に押し込めて、国家にとって都合の良い人たちを多く生み出していくことにしかならないと思ってしまうのだ。

 

働き方の改革、働き方の多様性とはつまるところ会社にとって都合の良いものとなり、同時に働く人たちにとっても好都合のものにならないと意味がない。会社と労働者が双方とも利益を得られないと発展性がなくなるのである。

国家の介入がないと働き方改革ができない、とするのは政治家や官僚の思い上がりに過ぎない。「民間」のもつ潜在的能力を低く見積もっていることの証左である。政治家や官僚どもの思考力の低さ、柔軟性の欠如、問題解決力の欠如はグランド・デザインを欠く政策によって現状の社会の閉塞感を生み出している事実を鑑みれば自明のことである。

 

働き方改革にしても、「民草」に全面的に委ねればいいのである。

会社や労働者が自律的に行動を起こし、結果何とかなるはずである。