希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「寄らば大樹の陰」というメンタリティには陥りたくないという件

「寄らば大樹の陰」。

僕が最も嫌いな故事成語である。

「強いものには巻かれろ」と同じくらいに。

確かにこの世知辛い世の中を泳ぎ渡るのに必要な処世術だとは思う。権力に抵抗しても碌なことにはならない。強い者に媚び諂って生きた方が結果として「実」を取ることになる、とシニカルに言う人が多い。

 

強き者、権力を持つ者に魂を売って実利を得るという生き方に僕は強い拒否感を持つ。それでは奴隷と同じではないかと思ってしまうのだ。

僕は弱き者として生きていきたい。弱い者ながらも誇りと矜持を持って生きていきたい。

 

僕のような実利をないがしろにした生き方をしていれば社会的地位を得ることもなく、また経済的な豊かさを享受することなく朽ちていくことになる。世に出ることもなく無名の人生を全うすることになる。僕はそれはそれでいいと思っている。

できれば名誉を得たいというエゴ、カネを得たいと言うエゴをすべて棄て去りたい。

 

そもそも「寄らば大樹の陰」という生き方が本当に成り立つのか疑わしいと僕は思っている。

寄るべき「大樹」が未来永劫存在し続けるわけではない。

支配者層がいつまでもその椅子に座り続けることはない。歴史が指し示しているように。

ましてや大企業がいつまでも繁栄し続けることなんてありえない。

「大樹」を失えばそれに寄りかかって生きていた人たちはどうすればよいのだろう。また別の「大樹」を見つけて、それに寄りかかって生きるのだろうか。

 

弱者にやたらと「自立」を強いる人たちに、「寄らば大樹の陰」的な生き方をしている人たちが多いのは滑稽以外の何物でもない。彼らこそ全く自立をしていない、その事実に目を背けている哀れな人たちなのだ。

 

僕は「寄らば大樹の陰」的な生き方をよしとするメンタリティが理解できない。自分を失ってまでも得るべき果実とはそんなにおいしいものなのだろうか。それとも、人は大きくて強いものに寄りかかれずにはいられない生き物なのだろうか。

 

自分の頭で考え、判断し、自分なりの道を切り開いていく生き方が面白くてワクワクする生き方である。青臭い理想論だとは重々承知している。

でも、この理想の実現をはなから諦めて、他の何かに従属する生き方をすることを僕は潔しとはしない。

 

僕には寄るべき「大樹」は不要である。

経済的・物質的に報われない人生でも、それを受け容れていく覚悟がある。