希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

仕事を生活の中心とするな、という件

表題の言葉は僕のオリジナルではない。

ニートや引きこもり支援をしているニュースタート事務局を主宰している二神能基さんの著書で用いられている言葉である。

説得力のある名言なので引用させていただいた。

 

多くの人たちは仕事が生活の中心となっていることを自明のものとしている。

趣味や社会活動の時間は仕事をやりくりして捻出するように、何事も仕事ありきで考えがちである。このことを半ば常識であると捉えている。

自分の仕事に支障が出るようなことは極力排除するようにしている。

自分の仕事以外の活動のために有給休暇を取ることは何となく憚られるような風潮がある。

仕事を「公」のものと考え、滅私奉公をすることがまともな社会人である、という一見古臭い考え方が未だに残っている。

 

僕は何度もこのブログで仕事は人生の一部に過ぎない、と言ってきた。

この仕事観、人生観、価値観はあくまで僕個人が持っているものなので絶対的に正しいとは言えない。仕事=人生だとの価値観を持っている人たちを否定するものではない。自分の仕事に全精力を注ぎこむ生き方を選んだ人たち、そんな仕事に巡り合った人たちはある意味幸せである。

しかしながら、仕事一筋の人生は何となく歪である、偏っていると思えてならないのだ。もし、その仕事を失ったり、仕事ができなくなる状況に陥ったときにどうするのだろう、と心配になってくる。

 

殆どの人たちは自分の生活を営むために何らかの形で仕事をしなければならない。雇われる形であれ、フリーランス・自営であれ。

元々は生活費を稼ぎだすための手段として仕事をしているはずだ。仕事が人生の目的になっているわけではないはずである。

巷では仕事を通して自己実現を図るだの、仕事が人生を決めるなどといった言説がまかり通っている。よくよく考えてみるとおかしいことである。会社は利益を追求するために存在するのであって、労働者個々の自己実現なんて関係のないことである。労働者は会社に「搾取」されることを前提に自分の労働力を売っている、それ以上でも以下でもない。「自己実現」の類は会社が労働者を統制するための道具に過ぎないのである。

 

人々の生活は仕事の場以外の家庭や地域社会、様々なコミュニティでの営みも大切なものである。言い換えれば、自分の「居場所」を確保し、そこで自分の役割を果たして他者に承認され自身の存在意義を確かなものとするのである。

仕事の場以外に自分の居場所がない状況に陥ると人生の幅が狭まるし、何より生きづらさが増幅することになる。仕事を生活の中心とすると容易にこのような状況に陥ることになる。

 

今は、あるいはこれからは仕事を生活の中心としないような生き方を選択することがより良い人生を送るためのひとつの方法となる、と僕は思っている。

会社や役所等の組織はその成員に仕事中心の生き方を強いて、組織の論理に絡め取ろうとする力学を働かせる。放っておけば個々の「私」の領域をどんどんと侵食してくる。そして次第にそれに抗う気概や気力を奪ってしまう。

フリーランスという働き方を選んだ場合でも、仕事中心の生活をしていると同様のことが起きる。

 

僕は「仕事を生活の中心となるな」という言葉を常に心に留め置いておこうと思っている。労働至上主義イデオロギーに毒されないためにも、勤勉至上主義イデオロギーに抗うためにも。

人に何と言われようと、仕事だけの人生で終わりたくない。