気が付けば(と言うか気が付かないようにしていて)僕も立派な中年のオッサンになってしまった。
若い頃は今の僕くらいの年齢になれば分別も付いて人格円満になると思っていたが、ところがどっこい「成熟」には程遠い現状に直面している。
相変わらず色んなことに腹が立つし、他者に対して寛容になれない。
達観とは程遠く、人生の何たるかが分からないまま、もがいている。
オッサンになって僕はひとつだけこれだけはすまいと心に決めていることがある。それは安易に若者バッシングをしないこと、それらに類した言説に与しないということだ。同時に若者に迎合もしない。
年少者に対してリスペクトの念を忘れず、かと言って下手に出ることもせず、対等な人間として常に向き合いたいと思っている。
思えば僕は若い頃、オッサン連中が大嫌いだった。自分が近い将来にオッサンになることに思いが至らず、自分とは住む世界が違う人たちだと思っていた。
オッサンがする自慢話に辟易し、オッサンの好きな根性論や精神論に嫌悪感を抱いていた。オッサンたちほどコミュニケーション能力が低い連中はない、と思っていた。人の話、特に若者たちの話を聴くことができない。自分の手柄話をさも絶対の真理のごとく押し付けてくる。会社ありきの人生に疑いを持たず(そのように見えていた)その人生観をこれまた押し付けてくる。
自分の人生を半ば諦めているのに、それを受け入れることができない、往生際が悪いことがオッサンの本質だと思っていた。世の中に不満を持っているのに、それを変えようという気概を持っていないこともオッサンの本質である。
オッサン連中の不満の矛先は大抵は若者たちに向かうことになる。
サラリーマンなら部下の殆どは若者たちであり、実際に接する機会が多いために若者を批判したくなる気持ちは分かる。しかしながら、若者をバッシングしても何も生まれない。
若者はいつの時代も未成熟であり、上の世代から見れば理解不能であり、オッサンとは相容れないものである。
どの時代の若者も特有の行動様式があり、特有の価値観を有していて、その時代の世間の空気に抗うような面を持っているものである。
オッサン連中はそれらに眉を顰めて、批判をすることで自分の存在意義を確認していたのである。あるいは未成熟な若者に自分を対置させて優越感を持つことで安心していたのかもしれない。
オッサンが若い人たちを理解できないのは当たり前である。
人は自分が生きた時代の「空気」みたいなものを取り入れて自分の価値観なり人生観を作り上げていく。長く生きれば生きるほど世間のしがらみに絡め取られていく。
自分とは異なる価値観や常識を持った人たちとの対話を拒否していれば何もそこから生まれないし相互理解も不可能である。
オッサンは若者をバッシングして溜飲を下げるようなことばかりしていてもいけないし、かと言って訳知り顔で理解したつもりになってもいけない。両者の間に差異があるのが当然として、普通に付き合っていけばいいのである。その「差異」も実はとるに足らないものであることが多い。
自分とちょっとだけ「異質」な人たちと向き合い、受け入れることが実はとても面白くて楽しいことなのである。
この程度の寛容さは是非とも持っておいた方がよい。