希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

毎月決まった額の給料をもらうのが当たり前という発想が間違っている件

サラリーマンを続けていると毎月決まった日に決まった額の給料が手に入ることが当たり前という感覚に陥ってしまう。僕もサラリーマン時代はそうであった。

この「安定」した収入を得られることがサラリーマンであることの最大のメリットである。

 

僕はフリーランス非正規雇用で働く期間が長くなり、ずっと「不安定」な状態である。

慣れとは怖いもので、こんな状態がずっと続くと不安定さが常態となり別に気にならなくなる。収入が少ない月は支出を減らせば済むだけの話である。収入がちょっとだけでも多い月があれば、それだけで嬉しくなりささやかな贅沢を楽しむことができる。

僕にとって週に5日も一日に8時間も働くことは苦行である。残業なんてもってのほかで、荒行のようなものである。

 

今から思うとフルタイムで働いていた頃は僕にとっては地獄のような日々であった。まあ、大げさに、盛っているけれども。

月曜日なんて(日曜日の夕方から)憂鬱そのものであった。金曜日の午後になってようやく気分がハイになってきて、辛うじて生きているという実感を得ることができた。給料日だけが楽しみ、という日々は今から振り返ると不健全で哀れとしか言いようがない。

世の多くのサラリーマンは僕が味わっていたこの感覚が理解できるのではないだろうか。

 

不安定な働き方をしている僕からすると、時々、ほんのたまにだけれども毎月決まった額の給料が振り込まれることにうらやましさを感じるときもある。

しかし、その安定した収入は馬車馬のように働いた見返りとしてのものだと思いが至ると、その気の迷いは払拭される。

安定した収入を得ることと引き換えに、自由を奪われ、時間を奪われ、時として人としての尊厳を奪われることを考えると全く割が合わないと思えて仕方がない。まさにサラリーマン失格者、落伍者のメンタリティである。このメンタリティが正しいものだとは言えないけれども、ある意味「まとも」なのではないかと僕は思っている。

 

毎月決まった額の給料が決まった日に得られる、という働き方が多数派になったのは経済成長期以降のことであり、そう昔の話ではない。

サラリーマンが多数派となった社会で、「安定した収入」という幻想に過ぎないものが、当たり前のものだと思い込むようになったのだ。

「安定した収入」という幻想にすがりつき、それによって失う多くのものに目を背けるようになったのである。

安定した収入を失いたくないばかりに、好きでもない仕事をやり続ける、会社の論理に絡めとられる、自律的な生き方・働き方ができなくなる、などなど人としての尊厳を売り渡してしまったのだ。

 

もうそろそろ毎月決まった額の給料を得ることが当たり前だという発想から逃れた方がよいのではないか、と少数派に属する僕は強く言いたい。

見せかけの「安定」なぞ脆いものだ。ちょっとしたきっかけで跡形もなく崩れ去ってしまう代物である。

毎月決まった額の給料を決まった日に得る、ということにいつまでもしがみついていると大切な何かを失うことになってしまう。