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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕は変人が好きなのかもしれないという件

僕は他者から変人扱いされている人が好きだ。

確かに扱いづらいし付き合いにくい。ドギマギするような言動をするし、いわゆる真っ当な人とは異なる価値観を持っていてこちらがやきもきすることが多い。

でも、変人と付き合っていると面白いし勉強になるし刺激的である。

 

振り返ってみると僕は子どもの頃から「変わった子」とみられている人たちと友達になることが多かった。他の人たちからは好かれていない変わり者扱いされていた人と仲良くなるのが僕の取柄だった。

僕は意識して変わり者と友達になっていたわけではない。僕と波長の合う人だと感じて自然と仲良くなっただけだ。とすれば、僕も変人なのだろうか。他者から変わり者だとみられていたのだろうか。

 

僕は変わり者や変人とみられている人たちは別に特殊な人たちではないととらえている。ただ単に個性が強いだけの人たちであると思っている。

十人十色と言われるように誰にも個性がある。この個性の強弱というか濃淡というか、その程度の差がどれだけのものかという話である。

世間の常識やあるべき姿の範疇に収まる程度の個性であれば、その人は真っ当な人だとの評価がなされる。世の中の大多数の人たちはこの範疇に収まる。世間の常識からちょっとズレた人たちや逸脱した人たちが変人扱いされる。同調圧力が強い社会、均質化された社会では変人の居場所が奪われ、変人扱いされることが負のレッテルを貼られることになる。

 

古今東西、世の中を変えていった人たちの多くは変人である。既成の価値観に疑いの目を向けてそれまでになかった枠組みを創りだしたのは変わり者や変人だと見られていた人たちである。

そんなに大きな話ではなくても、たとえば新しいビジネスを生み出した人たちの中には変人や変わり者と見られていた人たちが少なくないはずである。異端者やマイノリティの力を侮ってはいけない。

 

しかしながら、変人や変わり者が英雄となり偉人となるのは後付けの話である。彼らを取り巻くいわゆる普通の人たち(世間になじんでいる人たち)はかなり振り回されたに違いない。理解に苦しんだに違いない。時として真っ当な人たちは変革を志向する変人を排除し抹殺してきた。既存の社会秩序を守り維持するためには致し方ないことである。

 

僕はどれだけ振り回されようとも、理解するために労力が費やされようとも変人と言われる人たちが好きである。変人や変わり者と付き合うことは自分の器量がいかほどのものなのかを問われることだと思っている。そんなに大げさなことではなくても、単に変人と付き合うと面白いことが多く起こるのが楽しい。

僕はこれからもどんどん「変人」と呼ばれる人たちと出会い付き合っていきたい。

ちなみに僕は自分のことを変人だなんて露ほどにも思っていない。