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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「怠ける権利」なんて本当にあるのか、あってもいいという件

ここんところずっと憲法の改正論議が続いている。

僕は改憲派である。

僕の主張は「怠ける権利」を認め明文化せよ、であり、勤労の義務なんかなくしてしまえというものである。

何人も怠ける権利を有し、それは人たるものの固有の不可侵の権利である、といった感じの規定を加えたら面白いのではないか、と勝手に妄想しているだけの話である。実現性はほぼゼロである。支配者層はこんなものを認めるわけがない。奴らの古めかしい堅い頭には「怠惰は罪」という考えしかない。怠惰は国力を損なう、という経済成長至上主義に凝り固まっている。

 

憲法に「怠ける権利」を、なんて話はただの僕のヨタ話である。妄言である。しかし、「怠ける権利」という考え方がちょっとだけ世の中に浸透してもいいのではないかと僕は思っている。

馬車馬のように一生の間ずっと働き続けることが正しいなんて勤勉至上主義的イデオロギーに異を唱えたいのだ。

もちろん、人それぞれの能力や意欲に応じてその人なりに働くのは当然である。ただ、働き続けていてちょっと辛いなと感じたり、疲れたり、疑問を感じたりしたときに堂々と休む、つまり堂々と怠けることができて、怠けていることを非難されないようなゆるさのある社会になればいいと僕は思っている。

 

社会保障制度に「怠惰のための給付」なんてものがあっても構わないのではないだろうか。例えば勤続5年を超えたら1年間の怠ける期間を認めてその間の生活を保障する給付制度とか。会社を辞めてもいいし、在職したままで休職扱いにして出戻りを許すような制度である。ヨーロッパでは似たような制度があると聞いたことがある。長期間のリフレッシュ休暇に似たようなものだ。

この手の長期休暇を設けるとこの国ではその期間中は自己啓発しろとか仕事のための勉強しろとかになりがちであるが、そんなことをしていたら意味がない。何をしてもいいし、何もしなくてもいいのである。ただだらだらと過ごすこと、好きなように過ごすことに意義がある。

 

怠ける権利が少しだけでも世の中に認められるとニートやひきこもりの人たちにとってはちょっとだけ居心地が良くなるかもしれない。

怠惰が決して悪でも罪でもない、となると自身の存在意義を否定することがなくなる。ニートやひきこもりをしていることへの罪悪感が減る。

怠ける権利を認めてしまうと、勤勉至上主義イデオロギーに毒されたオッサン連中はニートやひきこもりが増えて国力が衰えるといった妄言を吐くに違いない。この手の連中はニートやひきこもりの人たちに常に罪悪感を持っていてほしいし、劣悪な待遇の労働でも働けるだけましだとして自立を強いるのだ。

怠ける権利が認められると、ニートやひきこもりの人たちが世にのさばるかもしれない。僕はそれでいいと思う。たかだか働かない程度のことで、自室に引きこもっている程度のことで卑屈になることはない。大手を振って堂々とのさばってもいいのである。このようなメンタリティを持つことができれば、自ずと社会とのつながりを再び結ぶことができるようになり、自分なりに働くことができるようになる。

 

「怠ける権利」がどうのこうのなんて浮世離れしたことを言うのは僕がマイノリティに属するからである。雇われて働くことを忌避し、元々意識の低い人間が言う戯言である。

しかしながら、際限のない競争にさらされ、効率性ばかりを求められるガチガチの社会の中で居場所のない人たちが少なからず存在する。

怠けることを全面的に認めろ、と言いたいわけではない。

時と場合によっては怠けることを認めて、怠けている人たちを排除しないということだ。世間のどこかに怠ける人たちの居場所を確保するということである。

 

「怠ける権利」があってもいいはずだ、と僕は強く思う。

生きやすい、面白おかしい世の中にするためにも。