僕は勧善懲悪のドラマや映画が嫌いである。
「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」なんて観る気が起きないし、ハリウッド大作のアメリカ万歳なんて映画は吐き気を催してしまう。
「正義」なんて大概は胡散臭いものなのだ。
とは言え悪がのさばる社会もどうかとは思う。
強盗や殺人、汚職等が蔓延しそれが当たり前となった社会なんていやだ。
そういった「悪」が蔓延した社会が極限にまで腐敗すると、庶民はクリーンな正義のヒーローを求める。これはこれでまともな反応だと思う。
クリーンなリーダーは変革を志向し、時として「革命」にまで行き着くことになる。革命の当初は熱狂的に支持されるが、時を経るにつれてリーダー層は腐敗し、独裁を強化したり庶民を統制するために管理化を強めることになる。こんなケースは古今東西ありふれたものである。
絶対的な正義は存在せず、100%クリーンな社会は存在しない。そんな100%クリーンな社会はSF小説によく描かれている超管理社会でしかありえないものである。
世の庶民は100%の社会なんて存在しないしこれからも地上に現れないことを知っている。そこそこクリーンでそこそこ腐敗していて、そのバランスが取れた(ややクリーンさが優った)社会でまあまあの満足を得るのである。
時々に権力者層の腐敗を罵ることによってガス抜きをし、「まあ、世の中はこんなものだ」とか言い合いながら、なんとなく現行の体制を支持し、自分の取り分を増やそうと躍起になる。これが庶民のリアリズムなのだ。
たまに「正義」らしきものが勝つことがある。
既存の体制が悪の権化であると断罪し、自分たちが絶対的に正しいと主張し政治的闘争に打ち勝つと、そのイデオロギーが普遍的な正しさを持つと錯覚するようになる。かつての共産主義・社会主義のように。
正義とされるイデオロギーが庶民に幸をもたらすとは限らない。
僕たちは正義のために生きているわけではない。
イデオロギーでは飯は喰えない。
為政者が叫ぶ正義によって庶民は統制されるとなんとも生きづらい世の中になる。これは共産主義国家に限った話ではない。戦前のこの国も大東亜共栄圏だの八紘一宇だのといった空疎なイデオロギーを蔓延させて庶民を地獄に引きずり込んだ歴史がある。
正義が必ず勝たないからこそ、そこに社会のダイナミズムが生まれてくるのである。
為政者・権力者層が強いる正義なんて胡散臭いものだと醒めた目で見ておいた方が良い。
庶民の側から言い出す正義にしても、それが単なるエゴイズムに基づいたものであることが多い。弱い立場にある者の正義が絶対的に正しいものだとは限らない。時としてそれが弱者権力に転化することもある。要は権力者であれ、弱者であれ、正義の名のもとに得たものが既得権となったときにはそれらを手放したくないし、それらをずっと手にしたいがために正義を利用し続けることになるのである。
正義が勝つと、そこには意外と生きづらい社会・息苦しい社会が広がっていくことになる。
しかしながら、正義を失った世界は暗黒の世となってしまう。
このジレンマを内包した社会で僕たちはどうにかこうにか生き続けていくしかない。