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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

働けない、働きたくないのは病気でも障害でもないという件

働くということ 社会について考えてみる

僕は無職、ひきこもり、ニート、すべての経験がある。

無職のときは肩身の狭い思いがした。世間のつまはじき者だという感覚があった。ただ、ポーズだけにしても職探しをしているとまだましであった。時々面接に出向いたりしていると母の態度も暖かいものだった。「無職」はかりそめのものであって、いつかは真っ当に働いてくれるという期待を込めていたのだ。たとえ無職でありその期間が長引いていても職探しのアクションを続けている限り世間は多少は大目に見てくれるものである。

 

僕は小学校5年生のときに不登校になりひきこもり生活を送ることになった。不登校になってはじめの頃は両親は鷹揚に構えていたのだが、その期間が長くなってくるとわが子はおかしいのではないかと疑うようになった。その当時は今よりもずっと精神科を受診するということの敷居が高かった。そこでわが親はどこで情報を仕入れたのか不明だが、催眠療法なるものに一縷の望みを託したのだった。今から思えばずいぶんと怪しい催眠療法の診療所に僕はしばらく通った。そこでは催眠をかけられたり自律訓練法のマスターを図ったりしたのだが直接的な有効打とはならなかった。結局、僕は友人たちのおかげで学校へ通うことができるようになった。

不登校もひきこもりも僕の場合は精神的な病気によるものではなかったのだ。少しばかり学校という組織に不適応を来しただけだったのである。

 

数年前に厚生労働省がある調査結果を公表して物議を醸したことがある。ひきこもりの人たちの大半は統合失調症等の精神病が疑われるというものである。この調査はサンプル数も少なく、精神保健センターの相談者を対象にした非常に偏ったものだった。しかし、この調査がマスコミで報道され、ひきこもりに対する誤った認識が広がってしまった。ひきこもり、あるいはニート精神病者か怠け者であるという偏見が固定化される元凶となるものだったのだ。

 

僕の経験からも支援団体の現場での皮膚感覚からもひきこもりは病気によるものでも障害によるものでもないと言える。確かに一部の人たちは何らかの精神的な疾患を抱えていたり発達障害があるかもしれないが、殆どの人たちは「正常」なのである。

学校や会社といった組織の論理にうまくなじめないといった程度のことで「異常者」扱いされるのはそれこそ異常である。また同時に世間での多数派の価値観になじめない人たちが存在するのも当たり前のことで、この少数派の人たちを異常者扱いするのは多数派の横暴である。

 

ニートやひきこもり、あるいは生きづらさを抱えている人たち等が「働きたくない」「働けない」と言うことも思うことも決して異常なことではない。

働くことが当然のこと、という労働至上主義イデオロギーに抗っているだけである。労働・勤勉が絶対的に善で怠惰が絶対的に悪というイデオロギーが幅を利かせだしたのは近代以降のことに過ぎない。少々穿った見方をすれば、支配者層が押し付けたものに過ぎないのである。

そもそも近代以降の「労働」は人間疎外が内在する、人としての価値を毀損する性質を有するものである。

働きたくない人たち、働けない人たちを一つの価値観だけで捉えて、病気や障害を持っているとカテゴライズして異常視し異端視するのはことの本質を無視した愚行である。

 

働きたくない人、働けない人は経済成長至上主義が跋扈する世の中では疎外された人たちである。経済成長に寄与できない人たちは異常者で役立たずだとして排除する社会は不健全であり生きづらい社会である。

働きたくない人や働けない人に対して負のレッテルを貼るような経済成長至上主義イデオロギーは前世紀の遺物としなければならない。