社会や人様の役に立つ仕事がしたい、という人が結構いる。特に若い人たちにこの傾向が強いらしい。社会起業が脚光を浴びているのも、カネ儲けだけではなく何か社会や人の役に立ちたいという意識の表れだと言える。
社会貢献を志向すること自体は良いことである。
カネ儲けばかりに血眼になり、経済成長のみを至上の価値とする考え方が跳梁跋扈する社会においてはそれらの価値観に対する異議申し立てとなりうるものである。
ただ、気がかりなことがある。
社会貢献や社会起業は社会や人の「役に立つ」ことばかりを強調すると、結局は経済成長至上主義的価値観と同質のものにならないか、ということだ。この価値観の下でも、経済の成長に「役に立つ」かどうかで人を選別する。「役に立つ」というキーワードがなかなかの曲者なのである。
人はひとりでは生きていけなくて、人と人とがお互いに支え合って生きている。大抵は支え合いは集団を成して行われる。国家や社会という大きな集団から地域コミュニティ・職場・学校等の小さな集団に至るまで、人はそれぞれの集団の成員となりその中で自分の役割を果たしている。役割を果たすということは、通常は準拠集団のあるいは他者の役に立っているかどうかで判断することになる。役に立っているかどうかは準拠集団の維持・発展に寄与しているかどうかでこれまた判断することが多い。
人が皆「役に立つ」ことができれば何も問題はない。しかしながら、実際には一見役に立っていない人たちも存在する。
例えばある会社である人が役に立たないと評価されればその人は遅かれ早かれ職を失うことになる。ただ、この場合はその人は他の会社に移ることで浮かぶ瀬もある。会社という集団から排除されても、他の会社に包摂されうるのである。問題なのはある会社から排除されたままの状態に置かれたときである。ある集団から役に立たないと排除されて、その後に自分が依拠する集団が見つからないときである。このとき、人は自分の存在価値を見失い、路頭に迷うのである。
役に立つと思われる人のみがその存在を認められるという社会は歪で不健全なものである。
ある集団で役に立たないと選別され排除されても別の場で包摂され、自分の居場所を見つけられるような社会でなければならない。
そもそも、「役に立つ」かどうかのみで人を選別し、それらの人たちを排除してその存在を否定するようなことが当然とされるのはおかしいことである。
役立たずのように見える人たちが堂々と生きていける社会が誰にとっても生きやすい社会である。