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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

人生なんて「ケ・セラ・セラ」でいいんじゃないか、という件

生きるということ

僕は40代のはじめころまで人生を真剣に考えていた。

自分がなすべきことを明確にし、少しでも高みに到達したいと望んでいた。

同時に世間体を気にしていて、人から良く見られたい、役に立つ人間と思われたい、できる人間だと思われたい、と常に構えていた。

真面目であること、真剣に物事を考えることは悪いことではない。しかし、時として余裕をなくしゆとりをなくし視野狭窄に陥ってしまう。

 

何度もこのブログで書いているけれども、僕は40代の半ばに差し掛かろうとした頃にキレてしまった。

真っ当とされる働き方や生き方を貫くことが辛くなり、またばかばかしくなったのだ。

働くことだけが人生ではない、好きなことややりたいことを我慢して真っ当とされる生き方を強いられるのは真っ平ごめんだ、という心境に至ったのである。

その時から「ケ・セラ・セラ」、つまり「なるようになるさ」が僕の座右の銘のひとつとなったのである。

 

世間では、常に仕事にありつくために自己啓発をしろとか成長を常に心がけろとか言って脅し上げる。老後のためにカネを貯めておけ、と金融屋は庶民を脅している。常に僕たちに不安を煽り、人生は厳しいものだとの考えを植え付けようとする。

人生は厳しくもあり、緩くもある、というのが僕の考えだ。

実際問題として生まれてから50年ほど、何とかなっている。

確かに豪勢な生活はできていない(ビンボー生活が続いている)。結婚もできていないし、持ち家を所有することもできていない。それどころか、定職にも就いていない(正社員として雇われていないという意味で)。

それがどうした、と僕は声を大にして言いたい。

人に多少の迷惑をかけつつも(特に母親に迷惑をかけている)、あるいは完全に自立していないけれども、「自律的」に僕は生きている。自分にとっての「ナリワイ」を見つける努力を続けている。少しは「ナリワイ」を手にするための行動も起こしている。まあ、雇われて働くことがイヤだと公言しているので、この程度の自助努力は当然と言えば当然であるけれども。

 

人生なんてなるようになるさ、とゆるく考えていれば余計なストレスもかからないし、変な向上心を持つ必要もない。自分なりの自分に見合った向上心さえあればいい。

自分なりの「自由」を満喫し、ゆるやかな時の流れに身を任せることはこのうえもない贅沢である。僕はこの贅沢を大切にしたい。

 

僕は、ケ・セラ・セラ~と口ずさみながらこの世知辛い世の中を飄々と渡っていきたい。

たとえ、経済的に恵まれなくても、名声を得られなくても。

僕の身の回りにいる人たちの心に少しでも僕の存在を刻み込めたら、それだけで大満足である。