僕が社会保険労務士事務所を開業したのは31歳のときだった。
独立することを反対する人たちが沢山いた。
「収入が安定しないしリスクが大きい」という理由と「まだ若すぎる」という理由が主なものだった。特に後者の若すぎるという理由がどうにも僕には解せなかった。確かに当時の社労士業界は開業者の平均年齢が60歳前後であって、若造の入り込む隙はないと言われていた。僕のような30歳そこそこの若造なんて未熟者扱いされていたのだ。
僕が社労士事務所を畳まざるを得なくなったのは年齢のせいではない。未熟者だったのは確かだが、そのせいではなく守りに入り、攻める意欲を喪失したからである。
企業社会において年功序列、年功制賃金がだんだんと無くなっているという話が流布し、一般論として実力主義・能力主義に変わってきているという。そういった流れは確かにあるけれども、この社会では未だに「年の功」を重視する風潮がある。また、いつものことながら若者バッシングが繰り返し登場する。僕たちの世代は「新人類」と言われたことを覚えている。最近では「ゆとり世代」だとか「さとり世代」とラベリングしている。
「成熟した大人」が立派で社会を良き方向に導いているのか、と問えば答えはノーである。今の閉塞した状況を作りだした元凶はその成熟した大人たちの作為・不作為によるものである。
「成熟」とは言い換えれば、もうそれ以上の発展はない、保守的、変わることを恐れるメンタリティ等々と表現できる。「安定」を第一義とした価値観を頑なに守ろうとする頭でっかちの人たちである。
過去の歴史を見ても、大きな変革を成し遂げたのは未熟者と揶揄された人たちである。既成概念に囚われずにことを成し遂げるためには「成熟」は邪魔になるだけのものだったのである。ひとところに安住して良しとするメンタリティでは何も変えることはできないのだ。
成熟した立派な大人が経営する会社の不祥事が頻発し、衰退することを僕たちはずっと見続けている。
成熟した立派な大人の政治家たちが政治の名のもとに庶民を抑圧し続けている。
成熟した立派な大人たちが大小様々な組織を腐敗させている。
そもそも、人は生きている間は未熟者なのである。
人は常に不完全で常に未熟者なのである。
ちょっとくらい実績を積んだからといって、年齢を重ねたからといって、「成熟」したと「完全」になったと思い違いをしてはならないのだ。
また、自分を成熟した完全な大人だと思い込んで、いわゆる未熟者を切って捨てるという行為は愚行以外の何物でもない。
自分を成熟した人格者だと思い違いをして、未熟者の足を引っ張る行為をしても恥じない者はただの老害であり、即刻その場から退場すべき者である。
僕は死ぬまでずっと未熟者でありたいし、その心構えを常に持ち続けたい。
僕には「成熟」なんて不要である。
そう、僕がいつまでたっても「大人」になり切れない言い訳に過ぎないのだけれとも。