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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

働きたくないと思うのはある意味まともであるという件

働くということ 社会について考えてみる

僕はこのブログでたびたび働きたくないと公言している。「仕事」をすることは嫌いではないけれども、雇われて働くことがたまらなく苦痛なのである。

世間の常識や良識からすると「働きたくない」と口にすることは自殺行為である。働きたくないと思っていることがバレてしまうと即「使えない人間」「怠け者」といったラベリングがされ人に非ずと非難されることになる。

 

世のサラリーマンは本当に働きたくないとは考えていないのだろうか。例えば宝くじで数千万、数億円というまとまったカネが入っても働き続けるのだろうか。たとえカネがあったとしてもブラブラしていたら世間体が悪いので働く、といった感じになるのだろう。

労働至上主義的な考え方が根付いているこの社会では働くことに拒否反応を示す人たちを異端視し時には排斥する。

 

僕のようなダメ人間でも働くことによって得られるものがあることは重々承知している。自分で稼いだカネで生計を維持することができると一人前になったなという感覚になる。働くことによって自分の居場所を確保できるという側面もある。

しかしながらである。

労働者として働くことによって失われるものがあまりにも多すぎる、と僕は思ってしまう。

わずかばかりの賃金と引き換えに自分の時間と精神、肉体を会社に差し出さなければならない。会社に生殺与奪を握られて会社に対して隷属的な立場に陥ってしまう。有体にいえば、自分の「自由」を奪われ、自分の「自由」を差し出すことによってようやく自分の立ち位置を確保できる。「安定」という幻想に縋りつきながら。

 

僕は自分のナリワイをきちんと持って仕事をしている人たちに憧れている。たとえ収入が不安定であろうと、仕事がいつ無くなるか分からない不安定さがあろうとも、雇われて働くよりは人間らしい生活であると思う。

かつてそう遠くない昔では、人々は自分のナリワイを持ち自律的に働いていた。会社や工場や役所等で働くことが多数派になったのは最近のことである。会社等に雇われて働くことが自明のものになった歴史はごく浅いものである。

僕は昔に帰れと言いたいわけではない。僕のように雇われて働くことを忌避している人間が生き延びることができる隙間みたいなものがあればいいと思っているだけだ。

 

僕は世間から後ろ指をさされることを承知で言いたい。

働きたくない、と思うのはまともな神経を持っているからだと。

僕は確かにダメ人間であるし世間から少しズレた感覚を持っている。しかし、それがゆえに異端視され排斥されるいわれはない。

僕は自分が「まとも」であると信じている。