ある人が善行をした際に必ずと言っていいほどそれは偽善だ、なんてことを言いだす輩がいる。
大金持ちが多額の寄付をしたり、弱者救済の基金なんかを立ち上げたりすると「売名行為だ」とか「善人ぶりやがって」などといった批判を訳知り顔でなす残念な人たちが少なからず存在する。
ボランティア活動に励む人たち、社会活動をしている人たちに対してシニカルな態度を取る人たちも同じようなものである。
僕は完全なる善人なんていないし、また完全なる悪人もいないと思っている。人は置かれた状況によっては善きこともするし悪いこともする、ただそれだけの話である。
この世には山ほどの矛盾やひずみがあり、暴力や悪意に満ちている。
自分の得にならないことしかしない利己主義の塊のような人がいて、一方で世のため人のために奔走している人がいる。この両者の間には高い壁があるわけではなく、いつでもその壁をすり抜けることができる。
カネ儲けにしか興味がなかった人がちょっとしたきっかけで社会問題にコミットを始めることはよくあることだ。
人が善行を行ったとき、行おうとしたときにその動機を問いただす風潮がある。たとえ善い行いをしたとしても動機が不純ならばダメだということらしい。
莫大な額の寄付をする人がいて、その動機が名を後世に残したいという私利私欲ではいけないのだ。
身近な例でいうと、僕が電車に乗っていてお年寄りに席を譲ったときにその動機が隣に可愛い子がいて格好つけたいから、という不純なものではダメなのである。
犯罪者を取り締まる警察や検察でもあるまいにいちいち動機を詮索するなんて行為は愚行である。
清く正しく美しい動機でないと善い行いをしてはならない、なんてことになったら何もできなくなる。
善き行いをしても、「偽善」だの「売名行為」だのといちゃもんをつけられて、その人の足をひっぱるような社会は不健全である。
たとえ動機が不純で邪なものであっても行動を起こす人の方が清く美しい心を持って何もしない人よりもはるかに立派である。
善き行いをしている人たちに対してシニカルな眼を向けることがインテリ風だとか物事を分かっているとの態度をとること、つまり自分は俗っぽくはないいっぱしの人間だと誇示することはものすごく愚かしいことだ。
僕は善き行いを地道にしている無名の人たちを素直に尊敬する。
同時に、功成り名を遂げて世間に知られた名のある人が社会問題にコミットをすることにも尊敬の念を覚える。
僕は微力ながらも自分なりの方法で善き行いをてらいもなくできる人になりたい。
「世の中、こんなものだ」と訳知り顔で何もしないよりも、「偽善者」でありたい。