先日ある(自称)識者が出演している動画を見ていた。「働き方」や労働問題に関するテーマだった。
僕はこの識者のツイッターをフォローしていてブログも更新するたびに読んでいた。件の動画を見るまでは僕はこの識者に好意的であった。
しかし、動画の最後にこの識者は「付加価値を生み出せない労働者は野垂れ死ぬしかない」という旨の暴言を吐いて、この動画の締めくくりとなっていた。
僕は唖然とした。
いくら煽る意識やエンタメ的な要素があるとはいえ聞き捨てならない物言いだと思った。
世の中のあらゆる分野でエリート的な立ち位置の人たちや導いていく人たちは存在し、それらの人たちは必要ではある。リーダー的な立場の人たちから見れば、大多数の人たちは自分に縋りつきぶら下がっている存在だとみなしてしまいがちなことは仕方がない。しかし、そのぶらさがっている大多数の人たちがいなければ動かないのもまた事実である。一部のリーダーとその他大勢の人たちはいわば持ちつ持たれつの関係性の中で補完しながら何事かをなしているのである。
リーダーやエリート的な立ち位置の人たちが、その他大勢の人たちを見下し、その存在を否定することは即自分自身の否定となるのである。
世の中の大多数は「その他大勢」であり凡人である。
社会はそれらの人たちが根っこを支えているからこそ存続し発展するのである。真のエリートや指導者はこのことをよく理解している。
前述の識者のような物言いを臆面もなくする人は真のエリートやインテリではない。エリート意識だけが肥大化した腐れインテリである。
一昔前、ゆとり教育を推進した当時の責任者が「できない人はそのままで結構。従順ささえあればよい」という旨の発言をしたが、この発言の基にあるメンタリティも近いものがある。
世の中の様々な領域、特に企業活動において高付加価値を生み出せるのはほんの一握りの人たちである。確かにその人たちは能力が秀でていて、指導的立場にあるだろう。高い報酬や社会的地位を与えてしかるべきである。
一方、下支えしている大勢の労働者たちがいる。彼ら彼女らの働きがあるからこそ経済活動が滞りなく回っていくのである。これらの人たちひとりひとりが高付加価値を生み出さないからといって、劣悪な処遇をしてもいいということにはならない。ましてや「野垂れ死んでもいい」ということには絶対にならない。人としての尊厳が保たれる程度の生活が保障されなければならない。こんな当たり前のことをわざわざ言わなければならないことに異常さを感じる。
前述の「暴言」を吐いた識者が特殊なのではない。世間でエリートと呼ばれている多くの人たちが有するメンタリティなのである。その他大勢の人たちを「愚民」呼ばわりする自分自身こそが愚か極まりない人たちなのである。
ロシアのことわざに(正しい表現ではないけれども)「組織は頭から腐る」というものがある。まさしくこの社会では「頭」が腐っている。
「平凡な人たちは野垂れ死ぬしかない」と言い放って平然としている自称エリート、自称トップ層が我が物顔で跋扈している現状に空恐ろしさと虚しさを感じてやまない。