僕たちは学校でも会社でも競争を強いられてきた。
落ちこぼれたら後はないぞ、と強迫され続けてきた。
レールから外れて落ちこぼれても何てことはない、と開き直れた者が実は一番強いのである。
初出 2016/3/15
僕たちは「落ちこぼれ」になることを極度に嫌う傾向にある。他者から落ちこぼれのレッテルを貼られると、自分が最低の人間だと感じてしまう。学校でも会社でも教師や上司たちは落ちこぼれたら人生の落伍者だぞと、競争を強いる。
僕は真っ当な人たちから見れば「落ちこぼれ」である。
正社員としての真っ当なサラリーマン生活を送ることができず、競争社会から一歩も二歩も引いた生き方をしている。意識も低いし、自己実現なんて端から望んでいない。
こんな僕でも若い頃は必死で落ちこぼれないようにしていた。落ちこぼれたら人生はジ・エンドだと思い込んでいた。他者より社会的威信の高い仕事に就き、高収入を得て見栄えの良い肩書を手にすることが実りのある人生だと思い込んでいたのだ。
僕は今のような生き方を選んだことにより楽に生きられるようになった。常に金欠状態で懐は寒いがなんちゃってミニマリスト生活をすることにより何とかしのいでいる。
こんな僕でも競争自体を否定しているわけではない。適度な競争はあるべきだと思っている。ただ、競争社会に居心地の悪さを感じている者までに競争を強いるのは愚行だと思っているだけだ。
そもそも「落ちこぼれる」こと自体がそんなに悪いことなのだろうか。
ひとつの価値観に雁字搦めになっているだけなのではないだろうか。
勉強ができない程度のことで、ひとつの会社内で仕事ができない程度のことで、その人のことを落ちこぼれ扱いし、人としての価値が低いと決め付けるのは絶対におかしいことだ。
特に会社において「落ちこぼれる」ことを嫌うメンタリティが様々な問題を生んでいるように思われる。落ちこぼれたくないから限界を超えたノルマに粛々と従い、長時間労働やサービス残業をこなし、バカな上司の命令に従ったりする。会社で落ちこぼれてもせいぜいが昇進・昇格が遅れるか閑職に飛ばされる程度のものである。しかし多くのサラリーマンは自分の人間性を否定されたものと感じ、落ちこぼれないように心身をすり減らして働き続けている。
一旦落ちこぼれたら二度とは浮き上がれないような社会は不健全な社会である。全く面白みのない無味乾燥な社会である。
あるところで落ちこぼれても、別の場で力を発揮して生き生きとできるような社会こそが多くの人たちにとって生きやすい健全な社会である。
落ちこぼれることを殊更に怖れることはない。
たとえ落ちこぼれても、ものは考えようで訳の分からないプレッシャーから解放されることになる。
絶対に落ちこぼれ=人生の敗者ではない。
そもそも人生の敗者なんていないのだ。