希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

サラリーマンに教養は不要である件

僕は戦前の旧制高等学校に憧れを持っている。そこで育まれたと言われる教養主義的なエートスに憧れている。

僕には教養が欠けている。そのことを自覚しているがゆえに一冊でも多くの良書に巡り合いたいし、一冊でも多く良書を読破し自分の血肉にしたいと思っている。

 

今はちょっとした「教養」ブームである。

教養に関連した新書も出版されている。

反知性主義に言及した著書もいくつか出ている。一部の人たちの間で教養や知性の重要性を問う動きがあるのは確かなようだ。

 

世の多数派を占めるサラリーマンの世界では教養なんて無用なものである。仕事に直接的に役立たない知識なんて不要だし、教養云々言う暇があれば英会話でも習った方が有益だとの考えが大勢を占める。

サラリーマン諸氏が言う自己啓発とか知識なんてものは仕事に直接に役立つものでしかないのだ。哲学や文学、歴史学等の人文科学に接するなんて時間の無駄遣いにしかならない、と考えている。社会科学系の知識にしても、仕事に直結する経営学や一部の経済学、法律学等は学ぶ時間を費やすのに値するが、マルクス経済学や法哲学、政治哲学なんてものもこれまた無用の長物になってしまう。

 

ビジネスの世界で、特に経営者や経営幹部には教養は必要である、とよく言われる。しかし、教養なんてものは付け焼刃で身に付くものではない。教養を身に付けることはイコールその人の生き様である。

一介のサラリーマンであるときに教養をないがしろにしていて、いざ運よく経営幹部に昇進したときに教養を身に付けようとしても大概は手遅れとなる。この国の経営者の大多数に教養が欠けているのもうなずけるというものだ。

 

普通のサラリーマンをしているときには前述のように仕事に直結する知識の習得だけに邁進し、そのことがサラリーマンの正しい処世術になっている。経営者側も労働者に教養なんて求めない。下手に教養なんて付けられると、「労働」自体に懐疑的になるおそれがある。会社の存在意義を疑うことになる。会社や組織の有する不条理に気付き、サラリーマン(労働者)である自分の身の上を呪うようになる。そうなると会社の経営効率が落ちることにつながる。まあ、実際は教養になんて目もくれない仕事一筋のサラリーマンが殆どなので実害がないのである。

 

僕は教養主義的なものの復権を願っているわけではない。それはそれでなんだかお高くとまっているような感じがしていやだ。底の浅いエリート主義の跋扈を許してしまいそうでやはりいやだ。

教養といえば大量の知識の習得をしなければならないというイメージがあるが、それ以前の「学ぶ力と方法を持つ」「問題を発見する力を備える」ことが大切なのではないかと思う。これらは建前で会社が求めている人材の条件とも重なっている。あくまで建前であって、実態は相変わらず会社は企業風土になじむ人、組織の論理に従順な人たちを好んで採用している。やはり本音としては教養がある人や学ぶ力を備えた人は扱いづらくて鬱陶しいのである。

 

サラリーマンには教養は必要ないのかもしれない。そこそこの出世で満足な人たちにとっては尚更である。時と場合によっては教養がサラリーマン生活の足かせになることもある。上司や同僚に扱いづらい奴との感じを抱かせるおそれもある。

ただ、会社に隷属することをよしとしない人はせめて学ぶ力と方法を持つことを忘れないようにすることだ。仕事に直接関わる知識を学ぶことではなく、本質的なものを学び取る力を。