僕たちは不完全な存在である。
だからこそ完全な存在である「神」という概念を創りだし、宗教を生み出したのだ。
自分が不完全な存在であることを知り、それを超越しようとして様々な知的活動を営々と続けてきたのである。
しかしながら、僕たちは実生活において他者にあるいは時に自分自身に完全・完璧を求めている。
例えば仕事をしていくにあたり完璧さを常に求められる。多少はプロセスに失敗があっても結果がそこそこ出れば良いと思うのだけれども、そんなゆるい考え方は殆どの場合許されない。いやむしろ結果よりもプロセスの完璧さを追求しているような気がしてならない。
育児にしても昨今はより完璧であることが求められている。「親はなくとも子は育つ」と言われているように、実は育児態度がすべて子の人格形成に影響を及ぼすわけではない。放っておいてもそれなりに子は育つ、という事実を先人は知っていたのだ。
僕は喫煙者だが、近年の「禁煙ファシズム」的な風潮には辟易している。確かに喫煙はいくばくか健康を損なう要因になるのかもしれない。他方でタバコを吸うことによってストレスの解消になるという側面もある。この世で健康を損なわせる要因は山ほどある。長時間労働なんてその最たるものであり、健康云々を言うのならば長時間労働に対して強い規制をかけるべきである。
それに健康を絶対的な善とする考え方に危険が潜んでいる。
人は生まれてから死ぬまでの間にほぼ確実に何らかの病を得ることになる。その病と付き合いつつ日々の生活を過ごすのが当たり前なことである。健康体でなければ雇わないという会社や役所があればどう感じるだろう。一部の会社では業務に支障が出るという理由からちょっとした病気の社員を排除している。
あまりにも健康であることを絶対視し健康の定義を厳格化することによって、病気を次々と作りだし、医療費が膨大になっている。
人は歳を取ると体のどこかにガタがくるのは当然なことなのだ。病気や不調を悪として、健康を賛美するのは「健康ファシズム」である。
病気を持っていたり、心身に障害がある人たちを「不完全」な存在だととらえ、社会のお荷物だととらえる考え方は危険この上ない。優生思想や社会ダーウィニズムにつながる非人間的なものである。
たとえどのような病気を持っていても、どのような障害があっても人は人である。その存在が無条件に肯定されるべきものである。
人は「完全」であったり「健康」であったりといった条件付きで存在を認められるものでは決してない。
こんな当たり前のことを表立って口にしなければならないような社会になってはならないのだ。