僕は「ゆるく」ものごとを考え、生きていきたいと思っている。
そのために「いいかげん」で「適当」である自分を肯定している。
必死になって完璧さを追求しても、それが楽しい人生につながるとは思えない。
初出 2016/2/1
生真面目な人、完璧主義者といった人と付き合うのはとても疲れる。僕がいいかげんな人間であるがためにそうなのかもしれない。
僕は元々結果オーライで結構だという考え方をしている。結果を出すためのプロセスが大切だということは重々承知しているが、あまりにもプロセス、言い換えれば努力に重きを置くことはいかがなものかと疑問を持っている。
ある程度の成果さえ上げることができれば適当でもいいのではないかと思っている。
一心に物事に当たること、寸暇を惜しんで働くことばかりを神聖視することは僕からするとバカらしいことである。
「いいかげん」や「適当」という言葉は元々はほど良い加減を意味する良い言葉だった。負の意味合いを持つようになったのは戦後からであり、つい最近のことなのだ。「過ぎたるは及ばざるが如し」という故事成語があるように、何事もほどほどが良いのである。
頑張ることや脇目も振らずに働くことなどが尊いなんて経済成長至上主義者たちが撒き散らしたイデオロギーもどきに過ぎない。
庶民や労働者に勤勉を強いてほくそ笑んでいる者たちがいるということである。
僕はダメ人間であり、世間から落ちこぼれた人間であることは自覚している。
しかし、血眼になって自己実現だの自己啓発に邁進している人たちが幸せだなんてとても思えない。単なる馬車馬にしか見えない。
人生は楽しむためにある、は僕の譲れないポリシーである。また、人生は大いなる暇つぶしである。どう足掻いても僕たちは必ず死ぬことになる。ならば、生きている間は好きなように生き、好きなことをしてお気楽に過ごした方が実りある人生を全うすることになる、と僕は思っている。
脇目も振らずに働くことが人生だという生き方を僕は否定しないし、それはそれで立派なことだと思う。しかし、そのひとつの価値観を僕に押し付けないで欲しいと考えているだけだ。
世間で言うところの「立派」な生き方だけが人生なのではない。「立派」じゃなくてもかけがえのない人生がひとりひとりにある。
僕はこれからもずっと「いいかげん」で「適当」に生きていきたい。
ほどほどに生きていきたい。
世間からの評価に煩わされることなく、人生を楽しむために。