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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

なぜ精神を病むと世間から排除され、偏見に晒されるのかという件

僕が福祉に興味を持ったきっかけは精神の病に罹った人たちへの地域での生活支援や精神病院の歴史について知りたいと思ったからだ。

僕が抱いた素朴な疑問は、なぜ精神「病」の人たちは偏見の目に晒され、差別され、社会から排除されるのかということだった。精神疾患は病気のひとつに過ぎない。病気に罹ることは誰にでもありうることであり、精神疾患もそれに当てはまる。適切な治療とケアを行えば、精神病も治る(寛解というらしいが)し、再発も予防できる。たとえ完治しなくても、薬物やカウンセリング等で症状を抑え、日常生活は送れるはずである。

 

精神病を患う人たちへの偏見や差別は昔から存在していたのだろうか。

過去の文献や資料等によると必ずしも社会から排除されていたわけではなかったようだ。精神病者知的障害者も「聖なる人」として共同体で丁寧に扱われていたというケースも散見される。また、民間療法においての精神病のとらえ方は「気」の障害と考えられていて、一過性の症状で治る病気と見なされていた(キツネ憑き等と呼ばれていた)。

つまり、昔は精神病者を隔離収容せずに共同体に包摂し、地域で生活を営んでいたのである。

近代に至り、欧米諸国では精神病者は社会治安上危険な存在と看做され、精神病院に強制的に隔離収容する政策が採られた。日本もそれに倣った。ただ、日本の場合は精神病院の建設が捗らずに私宅監置(いわゆる座敷牢)がメインとなった。

精神病院は治療の場という役割よりも、社会治安のための収容施設という性質を帯びていたのだ。

当然に人権を無視し、人間の尊厳を損うような事態に陥ることになる。

戦後になって、欧米先進諸国では病棟の全解放化・地域生活の支援がメイン・ストリームとなる。イタリアでは公立精神病院の全廃政策が採用され、イギリスでは人口当たりの病床数の大幅な削減政策を採った。一方、日本での精神病対策はかなり遅れている。未だに入院の必要のない患者が地域や家族の受け入れ体制が整わないために入院を強いられている。これを社会的入院という。その数は20万人に達するとされている。日本では精神病院の殆どが民間経営であり、患者を儲けの手段としてしか考えていない病院が多く存在していたのは事実である。

 

膨大な数の人たちが、ごく普通の、ごく当たり前の地域での生活を営めないという状況にある。貧困な政策や営利至上主義の精神病院のみにこれらの原因を帰すのは誤りである。根強く残る精神病への偏見や差別、無理解、それらを煽るメディアの無責任さも原因として挙げられる。

 

人はたとえどのような障害があっても、どのような病気を抱えていても、地域社会で受け入れられ、普通の生活を営むべきものである。

もし、自力で生活できないのなら必要なケアを受けて自立した生活を営むことができるような仕組みや体制が必要不可欠である。ここで注意しなければならない点は、「自立」とは必ずしも会社に勤めて、そこで得られる給料によって生活費を賄うことを意味するのではない。精神に疾患がある人たち、またはあった人たちは会社で働くことが難しいケースがある。特にフルタイムの勤務はきついし、ただでさえ日本の会社の労働環境は劣悪なので、病をこじらせるおそれがある。その人のできる範囲で就労すればよく、最低限の生活費は年金や公的扶助で補えばよい。カネを稼げなければ「自立」していないという考え方は、今や過去の遺物として葬り去らなければならないと思う。

 

もう一度繰り返すが、精神の病はただの病気に過ぎない。病気に罹れば治療し、静養し、回復すれば元の生活に戻ることは至極当然のことである。精神の病に罹った人たちは、この当然のことをずっと拒絶され続けてきた。かつての結核ハンセン病と同様に。

 

僕たちは「狂気」という病を畏怖してはならない。

日常とかけ離れたものとして、特別視してもならない。

異端視し、社会から排除してはならない。

 

地域社会において、ごく普通に接し、共に生活すること、たったそれだけのことが精神の病に罹った人たちにとってどれほど大切なことかを、僕たちは知る必要がある。

 

僕たちも内に「狂気」を孕んで生き続けていることを忘れてはならない。