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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「物乞い」をしている人たちを殆ど見かけなくなった件

僕は歴史に興味がありその関係の本をよく読んでいる。特に被差別民、遍歴・漂泊していた人々に関心が深く、「非人」等について書かれた著書を好んでいる。

そこで時々ふと思うのだけれども、最近街中に物乞いをしている人がいなくなったことが妙に気になるのである。この国が豊かな証拠だと言われればそれまでだけど、相変わらずホームレスは存在している。ホームレスの人たちは日雇い仕事をしたり、アルミ缶集めをしたりして「働いている」人が多い。

 

僕が物乞い・乞食らしき人を見かけたのは20年近く前に当時住んでいた所の近くにあった商店街で「傷痍軍人」の格好をした物乞いを見たのが最後だ。「傷痍軍人」とは大東亜戦争で負傷しあるいは障害を負って復員した人たちで、その一部が白装束に身をまとい、楽器を演奏したりしながら物乞いをしていたのである。いわば当時の街の風物詩的なものであった。時代を経て傷痍軍人たちは姿を消していった。

 

今もインドやアジアの国々では街には物乞いがいると見聞きする。

実はこの国でも物乞いはひとつの「職業」だったのである。江戸時代には非人頭が統率していて、それぞれの持ち場があり、物乞いをして得た稼ぎは上納されていたのだ。いわば社会システム・経済システムの一部として物乞いは組み込まれていた。

 

今のこの国では物乞いは経済システムの外部にあり、物乞いをする人たち自体が激減している。

物乞いをしてもおかしくないホームレスの人たちは物乞いに走らずに別の仕事を求めている。物乞いをするのは余程切羽詰った人、例えば身体の自由が利かないうえに生活保護を拒んでいるような人たちであると推測される。この国のホームレスの人たちの殆どは物乞いに「堕ちる」よりも低賃金労働を選んでいるわけである。

 

仏教圏の国々では「喜捨」という考え方がある。キリスト教においても恵まれない人に対する寄付が尊ばれる。持つ者が持たざる者に対して「施し」をするのはひとつの文化であるといえる。

 

近代以降の人権思想下ではこの「施し」の概念は唾棄すべきものとされている。生活困窮者等の生活保障は基本的人権だと理解されている。つまり政府からの「施し」ではなく、当然に享受する権利だと言う考え方である。この考え方に全く異論はない。

しかしながら、持たざる者たちへの施し、喜捨の概念は大切なのではないかと思う。施しという言葉が悪ければ「贈与」とすればよい。

 

別にホームレスに限らず、ビンボー人に対して持てる人が自分が不用になったモノ、あるいはちょっとしたおカネをあげる行為が当たり前になれば面白いと思う。そういうネットワークがもっと広範に構築されたらとても楽しいし、面白くなる。一部でこのような動きがあるが、もっとメジャーになればいいと僕は思っている。

 

人にモノやおカネをあげる行為は、相手を下に見ない限りにおいて、素敵なことである。

誰かにおカネやモノをもらうことは別に恥じる行為ではない。堂々ともらって、有効活用すればよい。そうすればあげた方もとても嬉しいはずだ。

 

物乞いを卑しいもの、恥ずべきもの、という型に嵌った固定概念、偏狭な価値観を覆してもよいと僕は思っている。