希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「労働」は「麻薬」のようなものである件〈再掲〉

僕は雇われて働くことが嫌だ。勤労意欲の低い人間である。

こんな僕でも仕事をやり遂げた後の充実感を得たことが何度もある。

どうやら「労働」には人を狂わす何かが内在しているようだ。

 

初出 2016/1/18

 

労働(特に雇われて働く)の本質は、労働者が自分の時間とスキルを会社に提供し、その対価として賃金を得るものだ。労働契約に基づいた契約関係に過ぎない。会社の利益追求のための道具・駒に過ぎない。労働者は常に搾取され、再生産に要する費用として賃金が支払われている、つまり「生かさぬよう殺さぬよう」に会社にいいように使われている存在である。

僕はこれらのことをこのブログで主張し続けてきた。一見マルクス主義的な色合いを持っているが、僕はマルキスト・左翼ではない。労働特に賃労働の本質を考えていくとどうしてもこれらのような結論に落ち着くのである。

 

とすると、労働とは搾取され放題で会社の意のままにコントロールされ、苦痛ばかりが伴う虚しい行為となる。

ところがそんなに単純なものではない。

これまでに述べてきた労働の本質はそのひとつに過ぎないのだ。

 

労働が苦痛ばかりを伴うものならば、資本主義体制は崩壊するし、経済成長は望めない。

一見単調で苦痛と思われる労働にも喜びや楽しみが内在しているのである。

僕も経験したことだし、恐らく殆どの労働者もそうであろうがある仕事を成し遂げたときには達成感を得ることがある。それがたとえ単純作業的な仕事であってもである。特にグループである課題を達成したときの高揚感は言葉では言い表せない快感である。同僚や上司と協働して仕事をやり遂げることは労働の醍醐味であるとさえいえる。

 

つまり、労働の本質には「苦痛」と「快楽」が同居しているのだ。決してカネ(賃金)のためだけに働いているのではない。人と人とのつながりが得られるからやりがいが生まれるのである。

労働は麻薬のようなものである。

快楽も禁断症状もあり、心身を壊すこともある。

頭の良い経営者は労働に内在する「快楽」に着目し、それを上手くコントロールすることによって労働者のモチベーションを高めて利益の増大を図る。名経営者と呼ばれる人たちはこのコントロール技術が卓越していたのである。

 

僕は雇われて働くことがイヤだと広言している。こんな僕でも働きたくなることがある。カネが無くなったという理由もあるが、それだけではなく、働くという行為によって「何か」を得たいという思いがあるからだ。労働に内在する麻薬性の虜になっているのである。禁断症状が出ているのである。

はっきりとした確証は無いが、「労働至上主義」的なイデオロギーは労働の麻薬性と関係があるのかもしれない。

 

労働が麻薬のようなものであるのならば、なかなかに厄介なものである。

完全に労働を忌避することが難しいのもうなずける。人と労働とは切っても切れない関係となる。

 

僕が労働を客体化する視点を持ち続けるためには、労働が麻薬であるとの意識を常に持ち、その常習性や禁断症状に飲み込まれないように注意を払うしかない。

労働という麻薬の常習犯にならないよう、僕は抗い続ける。