プライヴェートよりも仕事を優先するのは当たり前である、と僕たちは疑いもなくこの考え方を受け入れている。
多少のことは仕事の犠牲になっても仕方がない、という考え方も当たり前になっている。
仕事を口実にして結婚式に行かなかったり葬式に行かなかったり子どもの行事に参加しなかったりすることも珍しいことではない。
ほとんどの人たちは人生での最優先事項に仕事をあげるだろう。
親の死に目に会うことなく仕事に打ち込んだ類の話、例えば俳優が舞台の出番を優先して親の死に目に会えなかったことを美談とする風潮が依然としてこの社会を覆っている。
仕事のために家族を蔑ろにしてもさしたる批判を浴びない。逆に家族のために仕事を犠牲にするような人には表立っての批判は少ないにしても哀れみにも似た視線を注ぐ。
僕たちは働き始めると何事よりも仕事を優先させるべきだとのドグマに毒されていく。仕事中心の生活を送れないような奴はまともな「社会人」ではないと洗脳されていく。
仕事なんて人生の一部に過ぎない、といった意味の言葉を吐くと異端者扱いされてしまう。この世は「労働至上主義」のイデオロギーに覆いつくされ異論を許されない、と言ったら言い過ぎだろうか。
会社勤めにしてもフリーランスにしても働くということは自由な時間を奪われることだと僕は思っている。自由な時間を奪われることと引き換えに幾ばくかのカネを得ることによってバランスを保っている。
自由な時間を持つことは何事にも代えがたい大切なことである。しかし、働くことに慣れてくるとその自由な時間を持つことの意味を忘れてしまうのである。いや、あえてその事実から目を逸らすのである。自由ばかりを追い求めるとカネが稼げなくなり生活を営むことが困難になる、という一面の事実がのしかかってくる。
仕事と自由な時間を持つこととの両立はなかなかに難しい。
仕事に費やす時間が人生の大半であることに僕は耐えられなくなった。
もっと自由な時間を持ちたいと切実に願うようになったのだ。
この世の中がどのように成り立っているのか、根源的な何かを無性に知りたくなり、一冊でも多くの本を読みたいと切望するようになったのだ。まあ、そんなに堅苦しい理由だけではなく読書が以前よりももっと楽しくなったのである。
読書のほかに喫茶店巡りをしたり古書店巡りをしたり散歩をしたり、色々な方のウェブサイトやブログを読んだりすることで時間を費やすことが僕にとっての自由な時間の有効活用なのである。全く生産的ではない、GDPの嵩上げにほとんど貢献していない、経済発展に寄与していない、資本主義体制の社会では僕は無用の存在である。
仕事のために犠牲にするものを極力減らしていくことが、今の僕に課せられた課題だととらえている。
仕事のために犠牲にするものが無くなれば無くなるほど僕は「幸せ」になっていく。