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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自己犠牲を厭わない人は他者の命を軽んじるという件

最初はちょっと「大きな」話をしてみよう。

絶対的な正義を信じる人、特定の思想に殉じる人たちがいかに恐ろしいかということを。

スターリンポル・ポト毛沢東といった独裁者はおびただしい人たちを殺戮した。彼らに共通しているのは、その殺戮が「正義」の名のもとに執り行われたことと、イデオロギーに殉じ、「自己犠牲」を強いたことである。彼らは「大物」であるが、古今東西絶対的な正義の名のもとに他者を抑圧した者は枚挙にいとまがない。

 

人を殺す思想が本当の思想だという。思想のために自己犠牲ができる人は自分の命を思想に捧げることができる。このことは自分の命を軽くとらえるということだ。自分の命を何物かに捧げるということは自分の命を大切にしないということになる。この手の人たちは他人の命を大切にしない傾向がある。

 

これ以上のイデオロギーについての話は僕の手に余るので、もっと身近なところに論点を持っていきたい。

このエントリーではイデオロギーに準ずることや絶対的な正義の怖さについて述べたいのではなく、「自己犠牲」を尊ぶ風潮の危うさを突いてみたい。

 

一見、自己犠牲の精神は美しく感じられる。

己を犠牲にしてまでも大義を貫く行為は美しい。

己を犠牲にして他者のために尽くす行為は美しい。

世の多くの物語は自己犠牲を描き、それらに触れた人たちの涙を誘う。

しかしながら、ひねくれ者の僕は思う。

それって自己満足に過ぎないんじゃないか。強者に強いられただけの行動様式に過ぎないんじゃないかと。

 

身近な例として、会社に勤めるサラリーマンたちを見てみよう。

今はもう死語になったかもしれないが、「企業戦士」という言葉が人口に膾炙していた。会社のために自己犠牲を厭わないサラリーマンを戦士に擬えていたのだ。会社にわが身も心も捧げるなんて僕からしてみれば狂気の沙汰である。しかし、多数のサラリーマンは程度の差こそあれ、会社に人生を捧げてきたのである。会社人間とか社畜とか蔑まれようとも、そのメンタリティは生き続けてきたのである。

 

とは言え、僕は会社に人生を捧げる生き方を否定しない。それはそれで立派な生き方だとは思う。ただ僕の価値観にそぐわないだけの話であって、会社やあるいは国家に尽くす生き方を善とする価値観を否定することはできない。

 

僕が問題にしたいのは自己犠牲をあまりにも尊び、他者に自己犠牲を強いることである。ある人が国家や社会に尽くし自己犠牲の精神を発揮するのはよい。その価値観を絶対視し他者に強いる行為は愚劣な行為だと思うのだ。

会社に人生を捧げること、自己犠牲を厭わない人は他者の命を軽んじる。前述したように思想に殉じ、自己犠牲を厭わないような人たちが平気で他者を殺すように、会社にすべてを捧げる人たちは平気で他者を「殺す」のである。

会社に人生を捧げ、自己犠牲を厭わない人たちは際限なく働き、またその働き方を他者に強いてくる。自分たちが正義だとの確信を持って。

この狂気じみた行為こそが、過労死や過労自殺、劣悪な労働条件、ブラック企業の跋扈といったものが一向に絶えない根源的な理由である。

 

自己犠牲は決して美徳ではない。

自己犠牲を厭わない人たちに同調し殉じることはない。