僕はやる気を見せることが嫌いである。僕の取るに足らない美意識であるが、涼しげな顔をして問題をクリアすることがスマートだと思っている。
この美意識は僕が幼少時から抱いているものであって、人前で勉強を決してしなかったし、働き始めてからも意欲ややる気を前面に押し出すことは野暮だと思っていた。勤め人時代の僕の人事考課は情意面では最低だったはずだ。
僕は学習の成果にしても仕事のそれにしても結果がすべてとまでは言わないがほとんどだと思っている。
学校生活では勉強に対する「意欲」が成績に反映される。僕の頃はテストの点数が成績にそのまま反映してたが、昨今は特に内申点をつけるときには学習意欲が評価の結構な部分を占めているという。例えばやる気を見せないがテストで高得点を取ったA君とテストの点数はそこそこだが授業ではやたらとやる気を見せるB君とでは下手をするとB君の方が成績が良くつけられてしまうこともある。つまり先生の前では良い子を演じた方が得することになる。
会社での社員に対する人事考課についても業績だけでなくやる気や意欲といった情意評価が行われる。有給休暇を取得せずサービス残業もいとわないような社畜的社員が評価される。やる気や意欲を見せつけないと会社に対する忠誠心が薄いと評価される。さすがに近頃は情意面ばかりを重視する会社は減ってきているが、情意面を全く考慮しないとまではなっていない。
やる気や意欲を学校や会社での評価基準にすること自体を否定はしない。何事も結果ありきで評価することはなんだか人情味がないと感じる。能力不足をやる気でカバーできる余地を残しておいた方が良いケースもある。
ただ、あまりにもやる気や意欲の有無を重く見ると様々な弊害が生じてくる。
会社内での評価を高めようとやる気があるという「演技」を続けていくうちにいつしか会社に隷従してしまう。
成果主義がこの国の会社に根付かないのは、個人業績重視と謳いつつも情意面の評価もかなりのウェイトを占めるような人事システムを採っていることがひとつの理由である。客観性が公正性を欠いたシステムによって個々の社員のモチベーションが下がり、疲弊するのである。
また意欲をもってしたことの結果が芳しくなくても、そのやる気を認めて免責されるという倒錯した事態を招くことは多々ある。これは悪しき精神主義である。
僕はやる気や意欲ばかりを重く見るような組織には身を置きたくない。
会社であっても非営利的な組織であってもである。
見せかけのやる気は組織を蝕む。
見せかけのやる気は個人をも蝕む。