人は誰でも承認欲求がある。
他者に認められると喜びを感じ、やりがいや生きがいが生まれてくる。
自分がなした仕事が会社や上司、同僚に認められることは何物にも変えがたいものである。仕事以外でも、勉強にしても地域活動にしても他者から認められるとやはり喜びを覚えることになる。
人は自分のためだけになす行為だけではどうやら快感を得ることができないらしい。他者に認められてはじめて自分の存在意義を見出すことになる。
他者からの「承認」は人が何事かをなす原動力になり、「承認」を得るために必死になって行動をすることになる。
当然のことながら、僕はこの承認欲求を否定する気はさらさらない。僕も他者に認められたいという思いは持っている。このブログを続けているのもひとりでも多くの人たちに読んでもらって僕という人間の存在を認めて欲しいからだ。
でも、ちょっと待てよ、とひねくれ者の僕は思う。
あまりにも他者からの承認ばかりを求めていると足元をすくわれないかと警戒感を抱いてしまう。そんなに他者からの承認ばかりを欲していると何か大切なものを失ってしまいやしないかと心配になってくるのである。
「労働」についてちょっと考えてみよう。
労働と承認欲求は強く結びついている。僕たちはただカネを稼ぐためだけに働いているのかと問われれば、多くの人たちはノーと答えるだろう。
仕事をすることによって他者、上司や同僚や顧客などに認められることを切に願っている。現実問題として人事考課を通して会社、上司からどれほど承認されているかを計られる。人事考課が良いということは質量ともに多くの承認を得たことになる。このことによってさらに仕事をするモチベーションが高まる。待遇が良くなるだけではモチベーションはそれほど上がらない。他者に認められているという実感を得てこそやりがいが生まれるのである。
しかしながら、承認欲求が肥大化すれば問題が起こる。
認められたいがために無理に無理を重ねてハードワークに没入することになる。承認欲求に上限はない。いくら認められても満足を得られないという泥沼に陥ってしまうことになりかねない。働きすぎによる過労死や過労自殺に至る要因のひとつにこの承認欲求のジレンマがあるのではないかと僕は思っている。
承認欲求のワナは労働におけるものだけではない。
カルト的なものに深入りするのも承認欲求を過度に刺激されたことによって生ずる問題である。オウムの一連の事件がエスカレートしたのも教祖に認められたいという信者の承認欲求によってもたらされた側面がある。
大衆が承認欲求を刺激されればファシズムに至ることもある。ある絶対的とされる価値観を目に見える形で提供され、「運動」に動員されることによって承認欲求を満たされる大衆が多数派になるといとも簡単にファシズムへと至ることになる。ヒトラーやムッソリーニといった単なる「歴史上」の話なのではない。現在もその危うさはこの社会に内在しているのだ。
承認欲求には魔物が潜んでいることをひとりひとりが自覚しておかなければならない。
他者から認められる快感にただ身を委ねて、それで満足して思考停止に陥ってはだめなのである。他者からの承認だけを生きがいに、生きる源泉にしてはならない。
自分を見失い、自由を失い、身動きが取れなくなることになる。
他者からの承認が得られなくとも、自分を奮い立たせる何かを持ち続けることがとても大切なことである。