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希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

学校に通うことは当たり前、という考え方こそがおかしいという件

教育問題について考えてみる

僕は小学校5年生のときに不登校を経験している。その学年でまともに通った期間は半分位だった。

当時は「不登校」という言葉はなく、「登校拒否」といわれていた。今ほどに社会問題とはなっていなくて、学年では僕一人だったと記憶している。のんびりしたというか、ゆるい感じで、担任の先生も深刻に考えておらず、一度も家庭訪問はなかったし、友達とも普通に遊んだりしていた。両親も心配はしていたが、いつかは学校に通うようになるだろうと、鷹揚に構えていた。要するに放ったらかしにされていたのだ。6年生になって登校した初日に先生は「おう、来たか」という感じで特別扱いもされず、クラスメートも同じような態度だった。後になって考えてみると先生や両親、友達のこのような対応が、僕にとっては良かったのだろう。

 

しかし、僕のようなケースは恵まれた、稀な例であろう。不登校が続くと、そのまま引きこもりとなってしまい、社会生活を送るのに大きな障害となってしまう場合が多々ある。

ただ、僕は表面上は学校生活に復帰し、その後には無事に高校・大学と進学したが、学校に対する信頼感はかなり薄らいだし、そもそも皆が学校に通う必要があるのかという疑問を抱き続けてきた。

 

とはいえ、当時の僕は学校をきちんと出ていないとまともな社会人になれないと思い込んでおり、葛藤を抱えながらも学校生活を送り続けた。ところが、大学を出たものの(しかも2校も)、今はまともな社会人にはなっていない。世の中うまくいかない。まぁ、これは「自己責任」である。

 

僕は今でも疑問に思う。

「学校」に必ず通わなければならないものなのか。

「学校」とはそれほどまでに至高の存在なのだろうか。

 

例えば「いじめ」の問題。いじめられて、自殺を考えるまでに追い込まれても、学校に通い続けることが大切なのだろうか。特に集団によるいじめ、特定の人を無視するなど、の場合、解決は困難を極める。いじめる側の資質だけの問題ではない。組織というものが抱える病理が存在するからだ。社会に根を張る同調圧力が、学校(学級)という組織にも当然にあるからだ。学校内における同調圧力の方が、よりキツイかもしれない。

 

一般に「学校」の持つ意義は、学習によって知識を得ること、協調性を培うこと、ルールを守ることを学ぶことである。

また、社会に有用な人材を育成することという側面がある。極論として、現在の学校は、国家や企業に従順な労働者を生み出すことを目的としているともいえる。さらにいえば、国家の都合で出来上がった制度に過ぎない。

 

確かに現在の就業構造をみると、大多数が労働者(雇われ人)となる。そのために社会のマジョリティにとっては「学校」に通うのが当たり前であり、そのことに疑問を持つこと自体がナンセンスである。もし、学校に通うことに疑問を感じ、学校の存在を否定したりする人がいれば、そんな人間は社会から排除されてしかるべきと考えるだろう。まるで「学校教」のようだ。

 

民主主義社会・市民社会においてはマイノリティに対しても相応の配慮をしなければならない、というのが原則である。いや、そんな大上段に構えずとも、人それぞれの個性や能力・嗜好等に応じた生き方が認められてこそ安心して暮らせる寛容な社会となる。

 

もっとゆるい教育制度を目指してもいいと思う。単線的な、ガチガチに規制した学校制度は疲弊している。

例えば義務教育段階でも、単位制の学校やフリースクールで学べば卒業資格が得られるようにすればよい。

高校や大学では、単位制高校通信制高校・大学が数多くあるが、もっとその存在を知らしめて、年齢や職業等に関係なく、いつでも学べる機会を得られるようになったらいいと思う。僕は30歳を前にして、通信制大学で学んだが、とても楽しく学び、沢山の刺激を受けた経験からもそう思う。

 

画一的な価値観のもとでは、マイノリティが不利益を受け、苦しみを味わってしまう。またマジョリティについても、その価値観に縛られてしまい苦しむこともある。

「学校」には皆が通ってしかるべきという価値観は、まさにその典型的なものである。