読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

自分ができたこと、やってきたことを人に強いるのは愚かだという件〈再掲〉

社会について考えてみる

自分が経験してきたことはあくまで「個人的」なものに過ぎない。

自分の経験が他者のなすことの役に立つこともあれば立たないこともある。自分の経験ばかりを拠り所にすることは危険である。

 

初出 2015/11/26

 

当たり前の話だが能力や適性、努力する力等は千差万別である。ある人が容易くできることでもある人にはできない、といったことが多々ある。

この当たり前のことが理解できない人たちが多くいる。

 

最近話題になっている「組み体操」の事故多発の件であるが、これも自分がやってきたこと、できたことを他人に強いているケースである。

僕も組み体操を経験してきたが、あれほど不毛なものはない、と確信している。運動会の始まる1ヶ月前から練習をさせられるし、何よりやっていて全然面白くない。

教師たちは達成感を味わって欲しいらしいが、何でもない、教師の自己満足に過ぎない。

 

僕の専門領域であり、関心が深い労働の領域でも同様のことが言える。僕が公務員をしている時に年配の同僚や上司は残業を強いてきた。定時で帰ろうとする素振りを見せると、露骨に不快感を表情に出していた。

彼らは自分たちがしていること、やってきたことは当然に僕もするべきだとのプレッシャーを与え続けた。多くの会社で長時間労働が改まらない理由のひとつとして、この下らない同調圧力があるのではないだろうか。

残業が当たり前という偏った価値観を下の世代に伝え続け、果てにはブラック企業を生み出す。

 

自分がやってきたことを他者に強いるメンタリティを僕は理解できない。人にはそれぞれ仕事にせよ、スポーツの練習にせよ自分のやり方がある。よく「真似る」ことが大切だと言われるが、それは自分の意志で真似ることに意義があるのだ。人からやり方を強制されること、真似をしろと強いられることとは似て非なるものである。

本来は、他者に何かを伝えるときには自分のやってきたことを示して、相手が自分の意志でそのやり方を受け容れるようにしなければならない。

 

他者に努力や頑張りを強いるのも同様である。

自分が努力してきたからといって、他者に努力を強制するのは愚かな行為である。

自分が頑張ってきたからといって、他者に頑張れと強いるのはこれまた愚かな行為である。

例えば、貧困家庭に育ち出世し成功した人が同じような境遇の人たちに自分のようになれとのたまうことが多いが、それはその人自身がたまたま運が良かっただけであって、一般論に帰すことはできないのである。

この手の人たちは、世の中には努力したくても努力ができない、頑張ろうとしても頑張ることができない境遇に陥っている人がいる、という想像力が欠けている。

ましてや、恵まれた環境に生まれ育ち、運とコネだけで成功している輩が頑張れだの努力しろだのほざくのは悪い冗談としか思えない。

どこぞの国の首相が「一億総活躍」だのという空疎なスローガンを掲げて、自分自身がただのバカボンボンなんてことは悪夢以外の何物でもない。

 

自分がやってきたこと、できたことはあくまで個人的なものである。

密かに自分だけを誉めておけばいいのである。

他者に自分の成功体験を強いるのはとても傲慢で愚かなことだと心しておかなければならない。

人はやはり謙虚さを失ってはならない。