希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕は学歴主義者かも、と時々思う件

僕は能力主義者であって学歴至上主義者ではない、というのが僕の立ち位置である。ただ、能力主義を突き詰めていくと学歴主義者に近づいてくる。

僕は生まれや家柄で社会的な地位が決まるような社会を嫌悪している。問題が多々あるとはいえメリトクラシー(業績主義・能力主義)が貫かれた社会が良いと考えている。となれば、表向き万人に公正に扉が開かれている学歴に基づいて社会的地位が得られる社会が良いということになる。

 

僕は時々ふと自分が学歴にこだわっているな、と感じることがある。

本を買うときに著者の略歴を確認するのだけれども、ついつい出身校が気になってしまう。出身校によって買う買わないを決めることはない。ただちょっとだけ気にかかるのだ。

滅多にないことだけれども、たまに2ちゃんねるの学歴板をのぞくこともある。自分の出身大学が滅茶苦茶にけなされているのを見てちょっとだけ気分を害し、こんなもの見なきゃ良かったと後悔する。

僕は今、学歴に関わりなく生きているけれどそれでも学歴が気になることがある。学閥が幅を利かすような会社や役所に勤めていたとしたならば、もっもともっと学歴を気にしていたに違いない。

 

僕は元々(高校生のときは特に)極端な考えを持っていて、東大と京大に行けないのならば、どこの大学に行っても良いと考えていた。もっと分かりやすく言えば、東大と京大以外はどこの大学に行っても同じだと考えていたのだ。高校3年生当時の僕の学力ではどう頑張っても京大は無理だと分かったので、受験勉強は適当にしておこうと考え、1日2時間程度の勉強でお茶を濁すことにした。まあもっとも当時は自律神経失調症的な症状と神経症的な症状にずっと悩まされていて、体調が最悪だったので無理ができなかった、と見苦しい言い訳をしておこう。

 

結局僕は大学入試のときには共通一次試験で大失敗したため国立大学を落ちて、私立大学に進むことになった。

学名を隠す必要もないので、その私立大学とは兵庫県にある関西学院大学である。そこの社会学部出身である。関西圏ではそこそこ有名な大学である。僕の併願先は関西学院大学社会学部1校だけであった。大学の雰囲気を気に入ったのと、社会学を学びたかったので他の大学と学部は受験せずに関学社会学部のみを受験したのである。

関学2ちゃんねるでは散々に叩かれているが、僕はとても気に入っていて愛校心もある。

 

僕は自分の学歴で損をしたと感じたことは殆どない。他の大学にコンプレックスを感じたこともない。得をしたことは結構ある。例えば社労士事務所を営んでいるときに、同じ大学出身ということで仕事の依頼があったり、社長に懇意にしてもらったりした。

僕の出身大学は「丁度良い」頃合の学歴を得られる大学なのかもしれない。

 

僕は「学歴なんて無意味だ」とか「学歴なんて関係ない」といった類の言説には与しない。学歴はある程度は有用だという立場を採っている。生まれや家柄で人となりを判断されるより、学歴による選別の方が「まし」だという程度のものではあるが。

学歴と人柄の良さは相関しないし、学歴と仕事上の能力もまた相関関係があまりないと見ている。

学歴とは味噌汁のようなものだと僕はとらえている。あってもあまり有難味を感じないけれども、無ければ無いでちょっと寂しい。まあ、この感覚は僕が曲がりなりにも大学を出ているが故に身に付いたものなのかもしれない。

 

ここまでつらつらと書いてきたことから判断すると、やはり僕はソフトな学歴主義者である。

でも、齢を重ね中年に達すると、学歴なんて意味をなさなくなるし、気にもしなくなる、といったところが僕の実感である。