希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

そこそこできる人は意外と辛い件〈再掲〉

「できる人」だと周囲に評価され続けることはとてもしんどい。

もともと能力に秀でている人はそうでもないのだろうが、大多数の人は精一杯努力して現状維持に汲々としている。

なぜ「できる人」でいなければならないのか、という根源的な問いかけをしてみることも必要だ。

 

初出 2015/11/12

 

僕はサラリーマンとしては決して優秀ではなかった。常に「雇われて働く」ということに疑問を感じていたし、組織の論理に絡め取られないように常に意識をしていた。こなした仕事の質については上司や同僚からクレームはなかったが、定時退社を極力心がけていた勤務態度についてはよく注意されていた。

フリーランスとしても優秀であったとは言い難い。請け負った仕事の成果には自信があったが、経営は下手糞だった。

 

仕事に関しての僕の自己評価は、まさに「そこそこできる」程度のものである。一定の水準には達しているが、突き抜けてはいない。

世のサラリーマンやフリーランスの人たちも僕のようにそこそこできる人が多いのではないかと思う。

 

今振り返ると、この「そこそこできる」レベルの人たちは意外と辛い目に遭っているのではないかと推測される。

一応仕事がある程度はできるので、色々と仕事が振られる。一定レベル以上の成果を求められる。こちらとしても仕事の成果を積み重ねていくと、「できる人」という評価を得られるのではないかと期待する。だからついつい頑張ってしまう。頑張って仕事をこなさないと「できない奴」とのレッテルを貼られる虞があり、そのことをとても恐怖に感じている。

そこそこできる人のレベルは、元々の能力に関わらず、ある程度の能力さえあれば努力しだいで維持可能である。このレベルを保っていれば、そこそこの評価を得られる。

この「そこそこできる」という評価を受け続けることが結構しんどいのだ。

僕の例で言うと、勤労意欲はほどほどしかないのに、しかもビジネス能力が普通レベルなのに、常に一定レベル以上の成果が要求される。ちょっと振れると、すぐに会社人間・社畜と化してしまう。会社人間や社畜にはなりたくないと強く思うけれども仕事に没頭しないと求められる成果を成し遂げられない、というジレンマに陥ってしまうのである。

僕のようなタイプの人間には、より多くの仕事によるストレスがかかることになる。

少しでも気を抜いたり手を抜いたりすると、即「できない奴」になってしまうのではないかというプレッシャーに晒される。

なかなかに辛い状況となる。

 

僕は40歳を過ぎてから、このプレッシャーから逃れることができた。

仕事なんかできなくても、人の根源的な価値が決まるものではない、仕事なんか人生のほんの一部に過ぎないと開き直ったからだ。

この開き直りによって精神的な負荷を失くすことはできたが、社会的地位や評判を下落させるという副作用をもたらした。

人は自身の評判や名声・地位等を手放すことがなかなかできないものだ。そのために無理を重ねることになってしまう。

僕はこの評価や地位は人が生きていく上でとても大切なものだと理解している。すぐに手放せ、なんてとても言えない。やむを得ない事情があって(例えば過労死しそうだとか、精神を病みそうだとか)はじめて手放すことができる性質のものだと思う。

 

そこそこできる人は意外と辛いものである。

砂上の楼閣のようなものである。

 

「できない奴」「役立たず」という負の評価・評判を甘んじて受け入れ、開き直ると確かに楽にはなる。しかし、特効薬的なものではない。

 

そこそこできる人を続けるも、それから離脱するのも人それぞれの人生観や労働観による。

僕が言えるのは、「そこそこできる人」を辞めても、結構楽しく生きていけるよ、ということだけだ。