希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「アジール」的な場が必要である件〈再掲〉

浮世から一旦離れてしまいたいと思うことがある。世間のしがらみから逃れたいと思うこともある。

居場所となりうる避難場所があれば救われる人たちは多い。

 

初出 2015/11/9

 

僕が子どもの頃は今のようにゲームが普及していなくて、遊びといえば野球かドッジボール、鬼ごっこ的なものがメインであった。

鬼ごっこのルールは民俗学からみても面白い。鬼がいてその鬼につかまるとアウトなのだが、避難所を設けてあり、その避難所、例えば地面に書いた輪の中とか高い所など、に逃げれば鬼はつかまえることができない。鬼ごっこは避難所(アジール)ありきのルールとなっているのである。

 

中世から近世にかけての時代、アジールが社会のそこかしこに存在していた。例えば「駆け込み寺」や「縁切り寺」が代表的なものである。

アジールに一旦身を置けば世間のルールから逃れられたのだ。

 

今のこの社会にはアジールは皆無である。

どこにいても世間のルールからは逃れられない。

自室に引きこもって社会との関係を完全に遮断するしかない。あるいは人里離れた所で完全自給自足するしかない。それらとて社会規範から完全に自由になることはできないのだ。たとえ出家して俗世間から離れようとしても、戒律やその宗派の規範から逃れられない。

 

この社会で生きづらさを抱えている人たちは「世間」から逃れたいのだ。同調圧力、あるべき生き方の強制から自由になりたいのである。

僕はこのブログで「居場所」の必要性を訴えてきた。「居場所」さえあれば生きづらさが軽減されると主張してきた。でも、人によっては居場所だけでは不十分のような気もしている。

単なる居場所ではなく、そこにいるだけで安心を得られる場、誰からも咎められない場が必要なのではないかと思うのだ。無理に働けと強いられない、真っ当な社会人なれと強制されない、人それぞれが穏やかな心持になれて自分の好きなように過ごせる場が必要であると思っている。このとんでもない社会に無理に適応する必要なんてないのだ。

 

かつてのようなアジールを求めても無理な話である。公の統制から外れた場なんて現代社会(この国・この社会)では存在しない。

しかし、アジール的な場はこんな世の中だからこそ必要になってくる。小さなコミュニティを作り、その中で自律的に生きていく。そんな場があってもよい。ただ、これは間違うとカルトになってしまう虞がある。僕が言う「小さなコミュニティ」はカルトとは似て非なるものである。

「絶対者」は存在しないし、絶対的なものへの服従もない。生きていく上での最低限のルールがあるくらいで世間の規範や良識を極力排する。文字通り、生きづらさを抱えている人たちの避難所なのである。

 

学校や会社の論理が通じない場、「学校教」や「会社教」に毒されていない場が現代のアジールとなりうる。

真っ当と言われる社会のレールから外れた生き方をもっと許容すべきだし、たとえレールから外れた生き方でもその人は幸せになれるはずである。

世間のしがらみから逃れたい人たちの拠り所としてのアジール的な場があれば生きやすい社会となる。異端者、マイノリティを包摂する寛容な社会に。