ごくごく当たり前の話であるが、僕たちは健康で文化的な生活を営む権利を有している。
誰もが知っている憲法25条の生存権保障の規定である。国家は国民の生活を保障する責務がある。
ただ、最高裁はこの憲法の規定をプログラム規定ととらえ、国家の責務とまでは認めずに努力規定的なものに留まるとしている。
僕はこのエントリーで憲法論議や人権論議をしたいわけではない。
僕たちが社会保障を享受する権利が実体的なものであり、単なるイデオロギーではない、というのが僕の立場である。社会保障は国家の恩恵的施策ではなく、僕たちが当然に受ける権利だと強く主張する。
なぜ今更こんなカビの生えたような論をぶつかというと、この社会では未だに社会保障制度を国家の恩恵だととらえ、生活保護をはじめとする社会保障給付を「コスト」だとみなし、受給する人たちにスティグマを刻印してるからである。
その最たる言説が「社会保障は人を怠け者にする」というこれまたカビの生えた俗論である。
確かに生活保護を受給している人たちの中で勤労意欲を喪失し、自立した生活に至っていない人がいるのは確かである。世間では生活保護受給者は怠け者で働かない人たちだという誤解が根強く残っている。
格差や階層が固定化されているときには「下層」に置かれた人たちが勤労意欲あるいは生きる意欲をなくす可能性が高くなる。いくら働いても生活は困窮したままで「下層」に固定されれば意欲をなくして当然である。
またしても生活保護を例に取って話を進める。
「就労支援」という名の労働の強制は、現状では劣悪な労働条件下での就労になる可能性が高い。つまり働いて得た賃金の額が生活保護費と同レベルなら働かない方が得だと考えるのも道理である。しかも生活保護ならば医療扶助や住宅扶助もある。
政治家や官僚、あるいは生活保護受給者を人間のクズだと放言している連中は1年間でも生活保護レベルの生計費で生活してみるとよい。いかに世間に流布している生活保護受給者へのバッシングの内容が偏見と誤解に満ちたものか理解できるはずだ。
働いてまともな収入を得ることができれば、勤労意欲を喪失するようなことは普通は起きない。
「中流」や「上流」に這い上がる可能性が大きく開かれていれば、人は勤労意欲や生きる意欲を保持し続けることができる。
貧困に到る根源的な理由は社会構造の歪みにあるのであって、決して個人の意欲に還元できるものではない。
社会保障、特に生活保護が人を怠け者にするのではなく、貧困を放置し格差を拡大させている社会構造の欠陥こそが人を怠惰にさせる要因なのである。
階層の固定化、格差の拡大を誘発する政策を採り、貧困問題から目を背け、現行の社会構造の歪みを放置しておきながら個人の「意欲」のみに問題がありとするのはまさしく政治の怠慢である。もっといえば「棄民政策」である。
社会保障は人を怠惰にする、あるいは社会保障は亡国につながるという俗論、暴論に乗せられてはならない。
それは国家に寄生している連中のたわごとに過ぎないのである。