希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

無為の時を過ごすことは怠惰ではないし、怠惰は悪ではないという件

ごく一部の人たちを除いて、人は生活を営むために働かなければならない。会社に雇われるにしても自営・フリーランスという形にしても。

働いている状態が当たり前であるという世間の常識によって、仕事を失えばそれが即あってはならない状態とみなされることになる。

 

僕は一生のうちで働かずに一見「無為」の時を過ごすことも有意義だと以前のエントリーで書いたことがある。

無為の時とは何もせずにぶらぶらしていることを指すのではない。読書に勤しんだり、街をぶらぶらしたり、旅に出たり、映画を観たりして時間を過ごすことも無為の時である。これらを働きつつ「趣味」として行うのであれば誰も非難はしない。しかし、平日の昼日中から働きもせずに読書や映画鑑賞や街ブラをしていると「うつつを抜かしている」と詰られることになる。生産活動に従事していないと「怠惰」だと見られるのである。

 

近代社会の成立以前、資本主義体制が確立される以前に「無為」の時を過ごすことは一部の階級に属する人たちの特権であった。例えば貴族と呼ばれる人たちが労働をせずに生産活動に属さない行為(狩猟やスポーツ、教養のための読書等)をすることである。この当時は無為の時を過ごすことは怠惰だとみなされなかっのだ。無為の時を過ごすことにも意味があると考えられていたのである。

 

資本主義体制が確立し、市民社会に移行すると労働は尊いというイデオロギーが成立し、無為の時を過ごすこと=怠惰だとみなされるようになった。そして怠惰は「悪」だという価値観が蔓延るようになったのである。

 

エスタブリッシュメントは人々が怠惰になること、無為の時を過ごすことに価値を見出すようになることを極度に嫌う。

生産活動の効率が落ちて経済成長が停滞することを避けたいがために、労働に人生の大半を費やすような生き方が正しいというプロパガンダを撒き散らす。そして何よりも人々が無為の時を過ごすことによって自分たちの頭で物事を考えるようになると現行の社会システムに対する懐疑が生じ、社会変革を志向する人たちを生み出す可能性が出てくる。エスタブリッシュメントが持つ既得権を脅かすことになりかねない。

エスブリッシュメントにとっては無為の時を過ごすことは怠惰であり、怠惰は「悪」でなければならないのだ。

 

世間では怠惰は悪となっている。エスタブリッシュメントが思い描いた通りに。「怠け者」というレッテルを貼られると人としての価値が毀損されることになる。僕たちは勤勉な人間を演じ続けないと社会生活がまともに送れない。無為の時を過ごすことが大切である、あるいは怠惰は悪ではないと声高に主張すれば即座に無能のレッテルを貼られてしまう。この社会に不要な人間だとみなされ、社会から排除される。

何とも生きづらい世の中になってしまっている。

 

僕は何も無為の時を過ごす「特権」を復活しろと言いたいわけではない。また、怠惰を賞賛したいわけでもない。

一生を通して馬車馬のように働き続けることを殊更に持ち上げる「労働は尊い」「勤勉至上主義」的なイデオロギーに少し抗いたいだけなのだ。

 

僕はこれからもずっと無為の時を過ごすことを大切にしていきたい。

人に後指を指されない程度に怠惰でいたい。

なすべきことをなす時が訪れたら、無為の時を過ごしたことによって蓄えた力を一気に放出するために。