希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

「逆張り」人生もなかなか面白いという件

世間で言うところの「真っ当な生き方」をしていれば大過なく人生を送ることができる。

世間との軋轢も避けることが出来るし、社会的信用もそこそこついてくる。

ある組織に帰属して「安定」した地位と待遇を受けていれば安泰だとかつては考えられていた。この組織は大きければ大きいほど良いとも思われてきた。

組織の一員としての自分、というアイデンティティを持つことが推奨されていた。自分という「個」を強く押し出すと、わがままだの扱い難いだのネガティヴな評価を受けるケースが多く見られた。

 

この社会は同調圧力が強く個人に圧し掛かる。

皆と同じがよい、横並びが普通でまともだと思われてきた社会である。

「意識の高い人」(良い意味で)は自分が抑圧され、能力が発揮できないと考え、ついには組織を飛び出すことになる。

僕のように意識の低い人間は違った意味で組織にい続けることが息苦しくなり、やはり組織から零れ落ちることになる。

いずれにせよ、両者とも「真っ当な」社会のレールから外れた生き方をせざるを得なくなる。

 

「真っ当」とされる生き方から外れても、そのことによって不幸になるわけではない。ちょっとだけリスクが高い生き方になるだけである。

起業したり、フリーランスになって成功すれば、組織人のときには考えられないような報酬や名声を得ることができる。一方で失敗すれば多大な負債を負う可能性もある。また、「安定」からは程遠い状態をずっと続けなければならない場合もある。

 

組織に留まって相対的に安定した生活を続けることが「真っ当な生き方」だと世間的に是認されている社会では、それを拒み違った生き方を選択することはいわば「逆張り」であるといえる。

当然にリスクは大きいし、不安定なものになりがちである。

成功する保証はどこにもない。

僕は公務員を辞めてフリーランスとして生きることを決めたときには、最悪の場合はホームレスになることを覚悟していた。まあ、実際はその当時は両親が健在でそこそこの生活レベルにあったので、何もかもを失った時には両親の許にやっかいになっていただろうけど。

 

僕はずっと「逆張り」の生き方を続けているわけだけど、意外と居心地が良いと感じている。確かにビンボー生活がずっと続いているけれど、悲壮感とは無縁である。少しばかりの「自由」があるのが何より嬉しい。将来はなるようにしかならないと、開き直っている。社会的な地位や信用は無きに等しいが、そんなものは屁でもない。

僕は「逆張り」の生き方を勧めているわけではない。真っ当に生きることが出来る人は、真っ当に生きた方が良いに決まっている。

真っ当に生きることは「王道」であると僕は思っている。

 

僕もかつては「真っ当に」生きようとしていた。自分にはそれが出来て当たり前だと思っていた。

けれども、どうも怪しいぞ、僕はダメ人間らしいぞ、と悟ったときに腹を決めて「逆張り」人生を進むことを決めたのだ。いや、違う、そうならざるを得なかったという方が正しい。

 

逆張り」人生もなかなかに面白い。