昨年の4月から生活困窮者自立支援法が施行され、生活に困った人たちを救済する道筋が一応はできている。
これまでは生活に困窮した人たちに対する支援・援助は事実上生活保護制度しかなく、当事者にとっては非常にハードルが高いものであった。生活保護制度は理念としては無差別平等を謳ってはいるが、実際は選別主義的なものであった。また、生活保護の受給はスティグマが刻印される負の側面があった。生活保護を受けるということは恥だという意識が強く残っている。
生活保護を受けることはれっきとした権利なのに、国の恩恵だという誤解が残ったままである。実施機関である福祉事務所の対応もパターナリズムに陥りがちであった。
困窮している人たちに対する自立支援、ワークフェア的施策そのものについては正しい方向だと僕は考えている。
生活保護制度の給付一辺倒な方法では自立を阻むおそれがある。働かなくても一定レベルの生活が保障されていれば大抵の人たちはそこに安住し、抜け出せなくなるのは当たり前の話である。
働ける状態にある人はやはり働いた方が良い。自分の生活を働くことによって成り立たせることができれば自信になるし、何より社会とのつながりができることの効用は大きい。
生活に困っている人たちに対する自立支援がその人たちに寄り添い、真に人として尊厳のある生活に誘うものであれば何の問題もない。
しかしながら、僕は危惧している。
それは自立支援の様々な施策が福祉給付費のコストカットのみを目的としてなされていないか、ということである。確かに無駄な出費は削減しなければならない。財源は限られている。しかし、目先のコストカットばかりに気を取られると、本来の「自立支援」の意味が捻じ曲げられ、生活に困っている人たちを一層の困窮状態に陥らせてしまうことになりかねない。
自立支援のメインストリームは生活困窮者を労働市場に再度送り出し、労働収入によって生活を成り立つようにすることである。その前提として生活困窮者に労働スキルをつけることと良質な雇用があることである。労働スキルは公共職業訓練を受けることにより、本人に合った技能を身につけさせることになる。ただ、現実は必ずしも労働市場が求めるスキルを身に付けさせる訓練が多くはないという点に問題がある。また、ある程度のスキルを身に付けても会社が採用意欲を持たないと意味がない。職業訓練を修了していても実務経験が乏しい人たちを会社が積極的に雇うかと問われれば疑問符が付く。
さらには良質な雇用があるかについてはさらに疑問符が付く。労働条件の、労働環境の劣悪さはずっと問題視されている。いざ働きはじめてもまともな生活を営まれるだけの収入がない、長時間労働が常態化している等により、心身に異常をきたし、元の黙阿弥になる可能性がある。
つまり、就労支援に重きを置くと、ただ単に生活困窮者を労働市場に放り出すことになってしまうのだ。「働けるだけでもありがたいと思え」的な支援の名に値しない単なる放置になってしまうおそれがある。劣悪な労働条件である職場に送り込んで事足りるとする自立支援とは名ばかりの棄民政策に堕してしまうのである。
生活に困窮した人たちに対する「自立支援」は小手先の支援だけではダメなのである。
労働雇用政策や住宅政策、子育て政策等を包括した社会政策がきちんと運用されてはじめて自立支援策が活きてくる性質のものなのである。
生活困窮者に対する自立支援施策を突破口にして、いわゆる「普通の人たち」に対する社会政策を実効性のあるものにしないと閉塞したこの社会を救う手立てはない。