この世の中は矛盾だらけである。
この世の中は不条理に満ち満ちている。
僕もこの社会の歪みや社会構造の矛盾に僕なりに怒り、どうすれば良いかをこのブログで発信してきた。
その際に重視してきたことは「素朴な正義感」を持ち、それを表現することである。
「正義」は危ういものである。
絶対的な正義などこの世に存在しない。
人類の歴史を見ると、正義の名の下に夥しい数の人たちを殺し、抑圧してきたことが分かる。
しかしながら、様々な問題を抱えた人たちが(自分も含めて)生き辛さを抱えて彷徨うさまをこの目にすると、自然と怒りが湧いてくる。
働いても働いても貧困から抜け出せない人たち。働きたいのに働けず、働かないことを責め立てられて身動きが取れない人たち。
世間から排除される多くの人たち。
人は誰でも安心して暮らしたいだけなのだ。
愛する人たちと共に過ごしたいだけなのだ。
自分の「居場所」があって、自分が果たすべき役割を全うしたいだけなのだ。
生きづらさを軽減するためにアクションを起こす源となるのが素朴な正義感である。
社会運動や労働運動をはじめた動機の殆どはこのまま社会の矛盾を放置しておけない、何とか良き方向に社会を変えたいというシンプルな思いである。
ただし、残念ながら原初のその思いは運動を進めるうちに霧消し、不毛なイデオロギーの争いやヘゲモニーの争いに取って代わり、運動が過激化したり衰退の一途を辿ったのは歴史が証明している。
僕は特定のイデオロギーを信じていない。そんな僕からすると、目の前に存在する様々な問題を解決することよりも、信奉するイデオロギーの正しさの押し付け合いともいえる不毛な争いを続けることの意味が分からない。
安心できる生活を成り立たせるにはどうすれば良いのかというリアリズムに基づいた行動こそが重視されるべきなのに、それを下に見るメンタリティが理解できないのだ。
僕はこれからも貧困問題、労働問題について、あるいは精神障碍者の問題やマイノリティに対する差別の問題にコミットしていきたいと思っている。そのときの自分の立地点として、「素朴な正義感」を大切にしたい。
独善的にならずに正義を絶対視しないように気をつけながら。
僕の怒りをシンプルに表現していきたい。