希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

貧困問題について考えているとやりきれない思いになる件〈再掲〉

貧困問題にちょっとでも足を踏み入れると暗澹たる思いになることが多々ある。

貧困は自己責任であるという黴の生えた理屈を言う輩がまだまだ沢山いる。

根本的に貧困問題の解決が図られるのはずっと先になるだろう。でも、希望だけは捨ててはならない。

 

初出 2015/6/3

 

僕は貧困問題に多大な関心を持っていて、このブログでも度々言及している。

貧困は自助努力で解決できるものではない。かと言って政策レベルですべてが解決できるものでもない。

社会構造の歪み、産業構造の変化、労働環境の劣悪化等々貧困問題は多くの背景があり、一筋縄では解消できない性質のものなのだ。

 

世の中には本当に様々な人たちがいる。それぞれの人たちの持つ背景は当然に異なっている。

能力や意欲があってバリバリ働いている人もいれば、労働意欲を喪失して働いていない人、心身の病により働けない人たちもいる。

単純に考えればすべての人が何らかの形で働き、生活ができるだけの報酬を得ることができれば一気に貧困問題は解決する。

当たり前の話だが、ことはそう単純ではない。

 

人は生まれながらの資質に差があり、かつ生育環境にも差がある。人は決して平等でも均質でもない。

かなりレベルの高い仕事を難なくこなせる人もいれば、単純作業をこなすことがやっとという人もいる。当然に前者に対しては高い報酬と社会的地位等がついてくる。後者はワーキング・プアに陥る可能性が高くなる。

これらの厳然たる現実に対して僕たちはあまりにも無力である。自衛策として高い学歴を得るとか、手に職を付けるとかの方法、つまり自助努力を続ける他ない。

 

自助努力には限界があることは火を見るよりも明らかである。

 

僕は食い繋ぐために派遣やパートで単純作業の仕事に従事したことがある。時給単価は低い仕事である。僕のように所帯を持たず、生活費がかからない者であれば、その仕事でもやっていける。あるいは配偶者が正社員として働いていて、家計補助のために働いている人たちにとっても同様である。しかし、自立して生計を営んでいる人たちにとってはかなり苦しいものとなる。

それと単純作業的な仕事はしんどくはないが、その仕事を長く続けなければならないとなれば、先が見えず、精神的に追い込まれるおそれがある。期間が限定されていればそれなりに割り切って楽しめる部分もあるのだが、10年・20年と同じ仕事を続けなければならないとなれば相当にキツイ。

現実問題として、世の中にはこの手の単純作業的・非熟練の仕事に就かざるを得ない人たちが多く存在する。産業構造の変化、グローバル化によってこの種の仕事は増えるばかりである。一方で高いコミュニケーション能力を兼ね備えた知的労働的な仕事も増えている。この両者の経済的格差は広がり続けている。

 

生活困窮者や生活保護受給者等が職を得て自立するには相当の報酬がある仕事に就く必要がある。以前であれば、単純作業的労働、エントリー・レベルの仕事(例えば一般事務・営業等)でも正社員として雇用され、そこそこの処遇がなされていた。これらの仕事に就けば自立できていたのだ。

けれども現状は、それらの仕事はパートや派遣に置き換わっている。待遇が悪くなっている。

貧困から抜け出そうにも、貧困からワーキング・プアにスライドするだけとなってしまう。大枠での「貧困」から抜け出せなくなっている。

 

資本主義体制の下で生きている限り、この国の今の経済システムが続く限り、貧困の問題は根本的には解決しないのでは、と暗澹たる気持ちになる。

 

貧困問題を解決するひとつの手段として、カネを多く稼ぐことのみに注力するのではなく、カネはなくても豊かな生活を営む方法を模索することもありなのではと僕は思っている。

「貧困」から「豊かなビンボー人」へとシフトするのである。これなら可能性はあるように思う。

貧困問題についてあれこれ考えるとやりきれない思いに捉われる。

しかしながら、カネはそれほど稼がないけど・カネはないけど楽しい豊かな生活を営めればよいと発想の転換をすれば、そこには一筋の光明がある。 

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