僕たちはどのような主義・思想・価値観を持っても公共の利益に反しない限り自由である。
他者にあるいは権力に強制されないはずである。
僕はアナーキズム・リバタリアニズムに関する著書を好んで読み、その思想に共鳴している。大杉栄の生き様に憧憬し、初期のロールズの論考に首肯する。
しかし、アナーキズムの思想を実践することはない。無政府主義と訳され、あらゆる国家権力を否定する考え方を行動に移すことはない。表面に顕れる行動様式と内心は別物だと僕は思っている。
実際問題として国家は必要だし、国家権力は必要悪である。権威も必要である。
アナーキズムは国家の秩序維持に好ましくない思想であり、その考えを実践すれば間違いなく官憲の手にかかってしまう。だからといってアナーキズムに共鳴しているというだけの理由で弾圧されるのは内心の自由を侵されることになる。
内心の自由は最も尊重されるべきものであるが、時としてそれを押さえつけようとするものがある。この社会では世間の同調圧力がそれにあたる。
また、「モラル」や「心の大切さ」「意識改革」という美名の下に、社会的圧力によって「思想統制」を図ろうとする。
何か問題が起きると(例えばいじめや自殺、格差問題等)それを生む要因となる社会構造の歪みを無視し、「心の問題」に収斂し矮小化する傾向がある。そして、「あるべき心の有り様」を画一的に決めて僕たちに押し付けようとする。この画一的な有り様から逸脱する人たちを「モラルがない」「意識が低い」といった陳腐な物言いで排除する。
何人も社会に害を為さない限り、どのような主義主張、思想、価値観を持っても良いはずである。たとえそれが現体制の転覆を図るものであっても、個人の内面に留まる限りは他者や権力によって侵されてはならない。意見の表明も最大限の自由を保障されなければならない。国家権力による検閲は決して許されるものではないし、メディアの自主規制も論者の表現・内心の自由を侵す愚行である。
エスタブリッシュメントにとって表現の自由、結社の自由、知る権利の保障等は最も忌み嫌うものである。
エスタブリッシュメントは己の既得権を守るためには都合の悪い情報は隠匿するし、己に牙を向いてくる人たちに対してはあらゆる手段を用いて弾圧する。あるいはマスコミを総動員してプロパガンダを垂れ流す。僕たちはこれらの姑息な手段に対して「抵抗」しなければならない。この「抵抗」の拠り所となるのが内心の自由であり、表現の自由であり、結社の自由なのである。
僕は「内心の自由」を最も大切にしていきたいと思っている。
邪悪なものたちに「抵抗」し続けるために。