希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

僕は「費用対効果」という言葉が嫌いである件

僕は「費用対効果」「コストパフォーマンス」という言葉がどうも好きにはなれない。

コストパフォーマンスという考え方自体は大切なことだとは思う。少ない労力で大きな成果を得られればこれに越したことはない。

 

例えば行政が関わる事業である領域については費用対効果を問わなければならない。公共事業についてはもっと費用対効果を考えるべきだと思う。他方で僕たちの生命や健康・安全に関する領域では費用対効果だけを求めてはならない。医療・福祉・公衆衛生等の領域では、まずは人の生命や尊厳を守ることを第一義にすべきであり、時にはコストパフォーマンスを一旦度外視することも必要となる。

しかし、実態は公共事業で費用対効果を軽視し、医療・福祉等で費用対効果をことさらに強調している。まったく逆のことをしているわけである。既得権益の有無・大きさがこの倒錯した事態を招いているのである。また、この国の支配層の無能さを顕していることにもなる。

 

特に「労働」の領域での費用対効果を必要以上に持つ込む風潮が僕には許せない。

労働者の費用対効果とは低賃金等の劣悪な待遇で高い成果を得ることに他ならない。ブラック企業の費用対効果はとても高いことになる。と、すればブラック企業は費用対効果の面からは優良企業になってしまう。こんなに人を(労働者を)バカにした話はない。突き詰めると、人を襤褸切れのようにこき使い、賃金の上昇があればポイ捨てにする。そして、安い労働単価の労働者に入れ替える。このサイクルを続ければ常に費用対効果は高いままである。

費用対効果が高ければ高いほど、経営者はボロ儲けをして、労働者は困窮し続けることになる。

 

安価な投資で高いパフォーマンスを得る。一見真っ当な理屈である。しかし、「労働」の領域や医療・福祉等の領域のように、費用対効果の高さばかりに目を向けていけば失うものも大きいのである。

 

今のこの社会では費用対効果ばかりが強調されている。無駄なことやある種の「ゆるさ」が蔑ろにされている。

例えば障害者は費用対効果が低い、と一般的には捉えられている。だからといって断じて彼ら彼女らを排除して良いとはならない。高齢者や心身の病気に罹っている人たち、ニートや引きこもりをしている人たちも同様である。

 

費用対効果ばかりを見て人間の選別をし、人間の価値を定めることは決してあってはならないことである。ナチス以上に不寛容で非人間的な歪な社会になってしまう。

 

費用対効果なんて無視してもよいケースは数限りなく存在する。特に人に対してのそれは多い。

政治家や官僚や経営者といった支配層が費用対効果がどうのこうの言い出したら、僕たちは心してそれに抵抗しなければならない。