希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

政治家が無能で無責任なのは有権者に責任はない件

政治家たちの政策の失敗や不祥事が起こると、それらの政治家を選んだ有権者に責任がある、と物知り顔で言う輩がいる。古館伊知郎がその代表である。まあ、古館は電波芸者に過ぎないので看過しても構わない。

 

政治家たちの無能・無策・無責任さは政治家自身の責任のみを問うべきである。

国民の代表として選挙で選ばれたからには、国民の生活を守りあるいは向上させることが最も重要な責務であることは言うまでもない。

僕たちは積極的であれ消極的な理由であれ、ある候補者を国会議員(あるいは地方議員)に選んだのは、国政や地方政治をその人に託したからである。

政治を執り行う「役割」を与えたともいえる。

決して既得権や特権を与えたわけではない。

政治家たちは選挙民に選ばれたことの意味を噛みしめて、職務に誠実に責任を持ってあたらなければならない。

もし、政治家が無能であり、無責任であり、不誠実ならば即時に辞めるべきである。不祥事を起こしたときにはそれまで受け取った議員歳費を返すべきである。国民・住民の代表とはそれほどまでに重責を負うものなのである。それが故に政治家自身の出処進退は厳格にすべきであり、責任を一身に背負うべきものである。

 

政治家の不祥事や無為無策有権者の責任にすれば、政治家自身の責任がぼやけるおそれがある。また、有権者が責任を負ういわれもない。戦後すぐに「一億総懺悔」なんてことがいわれたが、そのメンタリティは誤っているし愚かでさえある。

有権者には政治家の資質を見誤った道義的責任が少しばかりあるとは思うが、責任の第一の所在は当該の政治家にある(ほぼ全責任がある)。

 

この国は、この社会は社会的弱者に自己責任を押し付けても恥じないような国であり社会である。社会的弱者が困難な状況に陥っているのは社会構造の矛盾や問題にあるにも関わらずである。

翻って何か問題があると真っ先に責任を負うべき政治家には自己責任が強く問われるべきである。しかし、現実にはそうはなっていない。

責任を問われるべき面々がいつまでもその地位に居座っている。

見識があるといわれるコメンティーターや学者や評論家といった連中は、「有権者の責任」というコメントを垂れ流し続けている。その無責任なコメントが無為無策で無能な政治家を延命させている。

僕たち有権者は代表者を選ぶ権利(間接的に政治に参加する権利)があるのであって、政治的責任を負ういわれはない。有権者の責任を云々したいのなら、直接民主主義システムを採用すればよい。

 

有権者責任論は政治家の自己責任を不問にし、無責任体質を助長することにつながる。

ただし、有権者は無能な政治家を排除する役割を負っていることは確かである。その意味においては有権者にも責任はある。

僕たちは安易に世襲議員や官僚崩れや三流タレントを選んではいけない。冠婚葬祭や町内会などにこまめに顔を出すだけの候補者を選んでもいけない。これは、と思う候補者がいなければ(このような場合が多い)少しでもまともな候補者を選ぶようにする。

この程度の心構えが有権者の責務である。

 

バカな政治家がいればどんどん落とす。

そうなれば、バカな識者やコメンテーターにとやかく言われる筋合いはなくなる。