希望の舎―再生編ー

ライフサポーター&開運アドバイザーが書き綴るブログです。「あなたの心に灯をともす」ため、先人が伝承し語り継いできた叡智を伝えます。テーマは歴史/教育/宇宙論/仕事/居場所/心と体の癒し/健康法/開運法/運気アップ/民俗学/文化人類学/食養生法/少食/自然医学/甲田療法/中村天風/斎藤一人/エドガー・ケーシー/生きづらさ

もしかすると、ビンボーも遺伝してしまうのか、という件

僕はこれまでこのブログで貧困に関する問題を度々取り上げてきた。シリアスな内容なので、堅い文になりがちであった。

今回は肩の力を抜いた感じで書き綴っていきたいと思う。

 

ビンボーは遺伝するのか、という問いかけは貧困の世代間連鎖などというハードなものではないし、学術的にもならないし、あくまで僕の体験に基づいた主観論である。

 

僕は今はビンボー人ではあるが、小学校の高学年から実家を出るまでの僕の家庭の経済状況は中かやや下程度であった(僕の幼少期はかなり生活が苦しかったらしい)。ただ、公営団地住まいだったので住宅ローンはなく、可処分所得はそこそこあったと思う。高価なものは買ってもらえなかったが、野球道具やゲーム(当時は人生ゲームなどのボードゲーム)は十分に買ってもらえた。以前のエントリーにも書いたが、少年少女文学全集や百科事典を買い与えられたし、何より私立大学の学費と生活費を出してくれた。僕は国立大学に落ちたので私立に行くことになるのだが、親はそれでもイヤな顔一つせずに僕を送り出してくれたのだ。

 

僕の父はいわゆる地方の名家に生まれた。地元では「神童」と呼ばれていたらしいが、旧制中学ではなく旧制商業学校に進学した。当時は小学校のクラスで1人か2人しか上級学校に進学しなかったという。父が商業学校に在学した時期は戦争とまるまる重なっていて、勤労奉仕に駆り出されて勉強が殆どできなかったという話をよく聞いた。卒業時は敗戦の混乱期でさらに上の学校への進学を断念した。父はまず当時の逓信省の出先機関に就職したが、すぐに辞めて地元の地方銀行に職を得た。そこではそこそこ出世もしたらしいのだが、理由は分からないが(生前僕には教えてくれなかった)辞めて、後に職を転々とする。その頃に母と出会って結婚し僕が生まれた。僕が生まれた頃には借金があり(これまたなぜ借金を負ったのか教えてもらえなかった)、家と土地を失う。父は僕を母方の実家に預けて、広島へ行き、そして和歌山に流れ着く。和歌の浦という観光地の旅館の下足番から始めて再起を図ったのだ。そして紆余曲折があり、大阪の貝塚市に移り、木材商社の管理職(経理の責任者)となり生活が安定する。

 

父のライフ・ヒストリーを長々と書いてしまったが、僕は父はかなり優秀な人だったと思っている。高い社会的地位を得たわけでもなく、経済的に成功したとはいえない。しかし、僕と母との生活を守るために実直に働いていた。勤めていた会社での評価も高く、70歳までそこそこの待遇(嘱託ではなく正社員)を得ていた。僕は母によると父と性格が似ているらしいのだが、実直さや勤勉という性質は受け継がなかったようだ。

父はよく僕にカネに綺麗になれと言っていた。カネに執着することは人としてはしたないと、僕に伝えたかったのだ。そして、自分の思うように生きろとも、言葉にはしなかったが僕に伝えた。

 

父のカネに対する態度が僕の思考様式を決定付けた側面がある。

僕がビンボーでも自分を卑下せずに堂々としていられるのは、父の教えや生き様の賜物である。前フリが長くなったが、そういった意味で我が家ではビンボーは遺伝しているのである。

僕の場合、あくまでビンボーなのは自己責任である。遺伝だけではない。

自分自身で今の生き方や働き方を選択した結果のビンボーであるので、社会を恨んでもいないし、自分の選んだ道を後悔もしていない。ある意味、僕は恵まれた環境にいるのである。

 

ただ、恵まれない環境で生まれ育った結果の貧困問題、人生の途上で思いがけない困難に直面した結果の貧困問題についてはこれからもコミットメントし続けたいと思っている。 

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