希望の舎―再生編ー

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「役立たず」と誹られても堂々としていればよい件

人を罵倒する言葉は沢山あるが、「この役立たず!」というフレーズはぐさりと心に刺さるものである。

人や社会の役に立ってない、と言われると自分のアイデンティティを危うくするおそれがある。役立たずはこの世に存在してはいけないのかと思い悩んでしまう。

 

僕は思う。

全く社会の役に立ってない人って本当にいるのだろうか?

仮に役立たずの人がいるとして、その役立たずは社会に存在してはいけないのだろうか?

 

実際に役立たずかどうかの判断基準は絶対的なものでなく、曖昧な主観的なものになりがちである。分かりやすい指標としては、経済的な価値を生み出す人が有益な人であり、それを生み出さない人が役立たずとみなされる。

分かりやすい例としてニートが挙げられる。ニーとは一般的に役立たずの典型的な例として取り上げられることが多い。確かに働いていないニートはその点では社会の役に立っていない。しかし、ニートも消費活動をしている。その点においては十分に社会の役に立っている。引きこもりの人たちについても同様のことがいえる。

労働至上主義や勤勉教が蔓延るこの社会では、働いていないということだけで即役立たずのレッテルを貼られてしまう。ならば働くことができない障害者や高齢者や心身の病気に罹っている人たちはすべて役立たずになってしまう。この考え方は非常に危険である。極端な話にはなるが、ナチスホロコーストにも繋がる虞もある。ナチスユダヤ人だけでなく、国家の役に立たない存在として精神障害者身体障害者、ロマ人をガス室送りにした悲惨な歴史的事実がある。

 

この社会において、ナチスのような極端なことはしなくても、障害者やニート引きこもりなどを社会に役に立たない存在として排除することになるかもしれない。その可能性は十分にある。

 

そもそも人を社会に役に立つ存在かそうでないかで判断すること自体が間違っているのではないだろうか。その判断基準を経済的な面だけでなすことは愚かなことだとも思う。

例えば兵器を製造する会社や武器商人は莫大な富を生み出すが、その兵器・武器は多くの人の命を奪い兵器の製造と販売は究極の反社会的行為であり、全く社会の役に立っていないといえる。しかし実際は軍需産業のトップはエスタブリッシュメントと強く結びついている(あるいは自身がエスタブリッシュメントになっている)。まさに欺瞞である。

 

仮に世間から役立たずと見られたとしても、全く自分を卑下することはない。

役立たずとのレッテルを貼られても、堂々と生きていけばよい。

 

社会に役立っているかどうかなんて、実ははっきりと分からない曖昧なものなのだ。

いや、すべての人たちは何らかの役に立っている存在である。障害者であろうとニートであろうと犯罪者であろうと。

人間の存在意義を役に立つかどうかで判断することは実に薄っぺらなものである、と僕は思う。

 

 

 

 

 

  

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