法の下の平等は現代においては重要なイデオロギーである。実生活の場においても、平等であることが望ましいケースも多い。ワリカンなんて平等主義の最たるものである。
資本主義社会・自由主義社会が円滑になるためには「機会の平等」が保障されていることが前提となると語られることが多い。社会の競争に参加するに当たって、スタートラインが同じでなければならないというものである。結果として格差や差別が生じても、機会の平等さえ保障されていれば問題ないという考え方である。
しかし、このブログで幾度も言及しているように、現実のこの社会では機会の平等など存在していない。社会的強者が圧倒的な有利な状況で競争がなされているのだ。競争のスタート時点で大きなハンディキャップが生じている。
社会的地位を高めたり、安定した生活を営むための手立てとして今も学歴は有効なものである。必ずしも高学歴が幸せな生活を保障するものではないことは僕も分かっている。ただ、一般論として学歴が高い方が社会的地位や安定度の高い職業に就く可能性が高くなることは否定できない。世襲できるような家業もなく、コネもない人たちにとって高い学歴を得ることは、社会的に成功するための第一歩なのである。
どこの大学も高卒資格があれば受験できる。そういった意味では一見「機会の平等」は保障されている。しかし、難関大学ほど入学者の親の収入や資産、職業の社会的地位が高いという傾向がある。つまりカネ持ちほど有利になっているということだ。逆に大学に入ることのできる能力があっても、親が低所得で学費を負担できない場合は、進学を断念するケースも多くなる。こういった事態を回避するためには、給付型の奨学金制度を拡充すること、低所得者の子弟には学費を免除するなどの方策が必要となる。これは「結果の平等」を保障する性質を有するものである。
つまり、機会の平等を保障するためには、時として「結果の平等」を目指すような方策を取り入れることも必要となることを意味する。
学歴が分かりやすい例だと思ったので、つらつら述べてきたが、他の分野でも機会の平等のみに目を向けているだけでは不十分な場合が多いように思われる。
確かに「結果の平等」を重視しすぎると悪平等を引き起こし、社会の活力が殺がれるおそれがある。
完全なる平等なんて幻想であるし、また完全なる平等が実現した社会なんて薄気味悪い。
人は生まれながらに不平等である。
これが厳然たる事実である。
ただ、放置しておけない不平等も多々あるのも事実である。平等でなければならないことも多くある(例えば選挙権等)。
機会の平等を実現することは最も重要なことであると僕は思う。機会の平等があってはじめて社会の様々な分野での公正さが担保される。
そのためには、ときには、あえて「結果の平等」を志向した施策を取り入れる必要がある、と僕は思う。