希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

出社拒否や不登校になるのは特別なことではない件〈再掲〉

出社拒否をしたり不登校をする人たちは「特別」な人だとして排除する傾向がある。「弱い」「甘え」といった心無い言葉でそれらの人たちを傷付ける。

このどうしようもない会社や学校に行きたくなくなるのは「まとも」な反応である。

 

初出 2015/2/17

 

僕は不登校の経験がある。軽い出社拒否なんて何度もある。

不登校のとき、あるいは出社拒否したときには自分を責めたものだ。みんなが当たり前のようにしていることが自分にはできない。自分は普通以下の劣った人間なんじゃないかと悩んでいた。

僕が不登校だったときには学級委員をしていたように、表向きは僕は「問題児」ではなかった。クラスでリーダー的存在だったし成績も良かった。ただ、心の奥底で違和感のようなものをずっと抱えていた。

どうしてみんなと同じことをしなければならないのだろう。

学校を休むのは悪いことだって誰が決めたのだろう。

この感覚は勤め人のときにもずっと持ち続けていたことだ。

みんなと同じ生き方や働き方をしていれば周囲は認めてくれるけれど、そのことに異議を唱えると白い眼で見られる。

僕は少しばかりの自由が欲しかっただけなのに責任や義務を果たしてはじめて自由がある、としたり顔で言う人が多すぎる。

はじめに自由ありきで義務や責任を伴うことと義務や責任ありきではじめて自由が得られるというのは雲泥の差がある。

 

学校制度は近代社会になって作られたものに過ぎない。国家の要請、国家の都合で国民を学校という箱に押し込めて、国家にとって都合の良い人間を量産するために作った制度である。学校のみが「教育」を担うというコンセンサスが形作られて、そこからあぶれた者は非人間であるとされている。

教育とはそういうものではないはずである。

いつでも、どこでも、年齢を問わず、社会的な立場を問わずに学ぶことが本来あるべき姿だと僕は思う。教育は学校の専有物ではない。

 

人は何らかの形で働き、生活を営む。

会社や役所等の組織に雇われて働くことがマジョリティになったのも近代社会以降のことである。それまでは多くの人々は様々な生業を持ち自律的に生きていた。

組織に属して決まった報酬をもらうという働き方が安定した生活をもたらすということは否定はできないが、それと引き換えに失うものも多い。己で稼ぐ力や生きる術を失ってしまったのではないか。

 

学校にしても会社にしても、組織の力学が個人を抑圧する面があることは否定できない。時にはひとりひとりの自由を奪うこともある。個人の自由や尊厳よりも組織の論理が優先される。こんなに息苦しいことはない。この息苦しさや不自由さを感じない人たちは見事に組織の論理に絡み取られてしまったのだ。ただ、このことは一概に悪いとは言えない。ある意味「楽」にやり過ごせることが出来るからだ。自分の頭で考え、自分なりの生き方を追求することは茨の道を突き進むことにもなりかねない。

体制や組織に順応して、みんなと同じように生きることは楽だし世間との軋轢が生じないので大過なく生きることができる。

 

大過ない生き方にちょっとでも疑問を持つと不登校や出社拒否という形になって顕れることがある。無意識のうちに組織の論理に抗おうとするのだ。これは誰にでも起こり得ることである。特別な社会不適合者のみが不登校や出社拒否をするのではない。人として当然の反応である。

 

僕たちは多かれ少なかれこの社会・世間の同調圧力に息苦しさを感じながら、それらをやり過ごして妥協しながらなんとかバランスを取って生きている。

このバランスが崩れることもままある。

悲観することも自分を責めることはない。

その事実を受け止めて、一旦ひきこもることがあってもよい。

自分の生き方を見つめ直し、新たな自分に生まれ変わる好機かもしれない。