希望の舎―キボウノイエ―

漂泊を続ける民が綴るブログ。ちょっとナナメからの視点で語ります。これからの働き方・中世史・昭和前期の軍の組織論・労働問題・貧困問題・教育問題などに興味があるので、それらの話題が中心になります。

巷間で言われる「成長」とはまやかしに過ぎない件

この世には成長神話が蔓延っている。

経済成長を至上の価値だと思い込んだり、人は成長すべきだとする価値観が幅をきかせたりしている。

 

自己啓発書やビジネス書には「成長」という言葉が溢れかえっている。

確かに人は成長するし、その成長を否定していては話にならないだろう。しかし、強迫観念のごとく成長を強いるのはいかがなものかと思う。

 

巷で言われている「成長」の大半は仕事に付随したもの、要するにいかに資本主義体制・会社主義に順応するかに力点が置かれている。

会社にどれほど利益をもたらし、また自身がいかに稼げるかによって成長が計られているのである。会社の業績を上げること、広く捉えればGDPの嵩上げに貢献できることが成長なのである。

人格を陶冶し、教養を高めるだけでは巷間で言うところの「成長」とはならない。経済成長や会社の利益拡大に寄与してはじめて「成長」とみなされる。

 

僕は成長とは主観的で良いと思っている。

洞察力や他者との関わり方、共同体へのコミット等が深まっていると感じられれば成長だと捉えている。

 

人を成長へと導く要因は仕事だけではない。

人は仕事によってのみ成長する、という言説があるが、これは仕事至上主義、会社至上主義に毒された浅くて狭量な物の見方だと思う。

会社は「仕事による成長」という幻想を労働者に植え付けて、扱き使いたいというエゴを正当化するために成長を悪用しているのだ。

会社は本当は労働者個々の成長を望んではいない。もし、労働者が成長すれば会社の持つ矛盾、資本主義の矛盾、社会構造の歪みに気付き、会社の意のままにならなくなる。

会社は自社の利益追求のためだけの成長を労働者に求めているのである。

 

会社の利益追求や資本主義体制の擁護、経済成長のための「個人の成長」に意味があるのだろうか。仕事のスキルが上がり待遇が良くなるというメリットはあるかもしれない。

しかし、それは一時的なものなのかもしれない。会社が不要と判断すれば、あるいは社会情勢・経済情勢が変化すれば労働者個々の「成長」を顧みられずに切り捨てられることがある。成長によって得られたスキルが陳腐化することもある。

自己の成長を仕事に限定して捉えることはあまりにも危険である。

 

巷間で言うところの「成長」は実はまやかしだと疑ってかかる態度を持っておいた方が良い。

成長をしなければならない、成長なき者は去るべきといった類の思考様式は棄ててしまった方がよい。

 

真の「成長」とは意外と自覚できないものなのかもしれない。

また、人は生きていれば自ずと成長する、はずである。

楽観的すぎる考え方かもしれないけれども。