僕たちは感動に飢えているのだろうか。
変わり映えの無い日常に嫌気がさしていて「ハレ」を求めるがゆえにそこかしこに感動を見出そうとしている。
そんなところに目をつけてメディアは感動を僕たちに押し付けようとしている。
初出 2015/2/15
僕たちは「感動」を求めている。
変わりばえのない日々を送っていると、一服の清涼剤として感動を欲するようになる。
特に昨今、感動という言葉が連呼されている。
あたかも「感動」が至上の価値だとでも言わんばかりに。
確かに時折感動する事柄に出会うと、心が刺激されるし、生活に張りが出ることもある。
感動の全く無い生活よりも感動のある生活の方がなんだか素敵に思える。
しかしながら、天邪鬼な僕は思う。
あまりにも「感動」のオンパレードで安売りしていないかと。
感動を押し付けてはいないかと。
ブラック企業の特徴のひとつとして「感動」や「夢」という言葉を用いて社員を鼓舞することがある。
単調極まりない仕事に対して過剰なやりがいや成長をこじつけて、劣悪な環境下での労働を押し付けているのである。
労働者に「感動」を押し付けて、労働強化をもたらし、劣悪な待遇でも我慢しろ、カネや休みが欲しいということがはしたないと洗脳するのだ。
ブラック企業の経営者の儲けのために、「感動」は散々利用されている。
僕はスポーツ観戦が好きなのだが、辟易するのは実況やその後のコメントでやたらと感動を押し出すことだ。
僕はスポーツを楽しむために観ているのであって、感動するために観ているのではない。選手のパフォーマンスに一喜一憂するのが先であり、感動なんて副次的なものに過ぎない。
時として素晴らしいパフォーマンスに感動することはある。それらは観ている僕が決めることであって、決して押し付けられるものではない。
スポーツにせよ働くことにせよ、感動を前面に出し、あるいは観る人や労働者に押し付けるのはあまりにも安直な手法である。
特に労働において感動を押し付ける行為は経営者の邪な考えが透けて見える。
会社や経営者は労働者が働きやすい環境を整えたり、待遇を少しでも良くするために心を砕くべきなのに、労働者を洗脳して「やりがいの搾取」を図っている。
品性下劣で破廉恥極まりない。
僕たちは感動を売るために働いているわけではないし、感動を得るために働いているわけではない。日々の生活を成り立たせるため、少しでも潤いのある生活を送りたいがために働いているのだ。
もういい加減、「感動」の安売りを辞めて欲しい。
「感動」の押し売りは辞めて欲しい。
何に感動するかくらいは自分自身で決める。